母さんのページ


 福岡 太平洋展 東京 太平洋展 草花賛歌 それなりの人生 偶然のたまもの
 スズメバチに問う 縁側のある風景 魅せられて 待合室での一言 ラヴ・イズ・オーヴァー
 法事にお赤飯 クレダガルボ 「悠遊」の表紙絵 脇役のススメ 豪雨後の朝倉と農業
 幼き日々への誘い ある微笑 朝倉を見つめて 山小屋は鶯谷 山小屋までの道のり
 喫煙室のグレタ・ガルボ 猫柳は不死身 杉山八郎と樋口一葉 始まりは2πrから さよなら 二つの母校
 昭和20年に生まれて カフェで朝食を 代官山の夜はふけて 二人の手紙 副会長の山小屋訪問記
 ふれあった異国の人達  イギリス青年の正座  手作り山小屋奮闘記  根っこは皆同じ(笑いの中で) 故障車と小枝(シンガポール編)
 国境を越えて通学した日々 小さな手が小さな歴史を 村を守る愛しき人々 文章を書きたくなった



 
 福岡 太平洋・西日本展

 東京で5月に開催された太平洋展では、思いがけず「新人賞」と「会友推挙」を頂いたが、6月に巡回展として福岡市でも太平洋西日本展が開催され、東京展に展示されていた作品の中から多数の作品が持ち込まれて、福岡の人達にも披露されていました。

 西日本展では、新たに募集した作品も展示されており、別途それ用に申請した「ジャカルタの影絵」も展示され、多数の友人たちが見に来てくれました。ありがたいことです。

 太平洋美術会は、明治に発足した我が国最古の美術団体で、洋画・版画・彫刻・染織の各部に会員・会友約500名の団体らしい。東京展では高松宮妃殿下の姿もお見受けしました。

大濠公園にある福岡市立美術館

美術館 大濠公園側より

東京展で入賞した作品も巡回展示されていた

左右の作品と作風が違って、明るさが際立つレイアウト
 
西日本展に出展した作品
 
西日本展の案内状
   
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 東京 太平洋展
 
 知り合いから紹介されてご縁が出来た「太平洋美術会」会員に勧められて、東京で開催される太平洋美術展の一般応募の枠内で、染色の部に出展してみました。
 出展した絵は、マレーシア滞在中に学んだバティック(ろうけつ染め)の絵で、加入している「企業OBペンクラブ」の会報27号の表紙絵に掲載してもらった「孔雀の絵」(バッティック)です。

この絵が期せずして入選し、新人賞を受賞する運びとなりました。展覧会オープンの日に表彰式が行われるということで、久しぶりに東京に出かけました。展示会があった 国立新美術館は六本木にあり、その建物の立派さに圧倒されました。


第117回 太平洋展     太平洋美術会主催
会場:国立新美術館 1階
   東京都 港区六本木7-22-2
開催日時:5月18日(水)〜30日(月) 休館日5月24日(火)
     午前10時〜午後6時     最終日は午後3時まで
入場料:700円

展示:油彩・水彩・版画・彫刻・染織   染織の部に展示
孔雀の絵 作品名:「南国の幸せ鳥」   
受賞内容:新人賞 会友推挙
 
国立新美術館正門

 建築家 黒川紀章によるユニークな建物

正面入り口

切符売場のポスター

展示作品「南国の幸せ鳥」

新人賞と会友推薦を受ける

会場の様子

見入る見学者
 
質問者に答える
 
表彰式風景
   
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 草花賛歌
 
 広くもない我が家の庭に、川釣りが趣味だった義父が、釣りに行った帰りに見つけ植えた藪(やぶ)椿(つばき)や山桃の他に、槙(まき)や楓(かえで)があり、時には小鳥のさえずりも聞こえる。
 春の足音が近づくと真っ先に藪椿の花が咲き始め、楓の新芽も出てくる。暖かくなり近くの公園の桜の花びらが風に乗って庭に落ちてくる頃、楓の新芽は黄緑の美しい葉に成長し二階の窓近くまでになる。こんな樹々の下は殆ど日陰で、日光を好む花は育ちにくく、野の花を植えるようになった。山小屋に行く道のりの鬱蒼とした林の下に咲いているシャガ、菖蒲(しょうぶ)、山ゆり、友人からもらったえびね蘭やすずらん。秋の花にはホトトギスと愁(しゅう)明菊(めいきく)があるが、沈んだ紫色のホトトギスに一重の純白の菊を生けると、何か凛とした美しさを感じ身が引き締まる。

 雑草も可憐な花を咲かせるが、畑の中の草は取らざるを得ない。雑草にも目があるのではないかと思われるほど、野菜や花そっくりの姿で芽を出し、根は野菜の数倍の長さで巻きついている。素朴で季節感溢れる土筆(つくし)や、蕗(ふき)の薹(とう)、蓬(よもぎ)など、どんなにとっても根を絶やすことはできない。
だが道端や土手にある草花は好きだ。子供の頃、狐のボタン、カラスノエンドウ、ナズナ、母子(ははこ)草(ぐさ)等、黄色やピンクや白の小さい花達の上で寝ころんで遊び馴染んでいた。この遠い記憶の中の植物達が、今も身近に生きている事に気付いたのは最近だ。
 近くのスーパーの駐車場や、ビルとビルの僅かな隙間や道路や花壇の片隅に、食糧難時代に食べていた雑草や草花が生き生きと植っている。旅先の新大阪駅の前でも、街路樹の下にあざみの花が咲いていた。

 絵本作家、甲斐信枝氏は雑草に魅せられ、絵を描き、研究し出版している。
 氏の雑草を追いかける日々を記録したNHKの番組「足元の小宇宙」を見た時の一場面が忘れられない。キャベツについた夜露に朝日が当たった時、無数の水玉が虹色の宝石の様に煌(きら)めくのだ!朝五時にキャベツ畑に入り、その瞬間を発見した。

 人の価値観は、見た目の優劣に基準がおかれ、草花は花屋の店先に並ぶ事はなくあくまで脇役だ。
しかし戦後の貧しい時代、田畑の畦道(あぜみち)で蓬(よもぎ)の新芽を踏むと春を感じ、嬉しくなって思わず駆出し草花の咲いている畑の中に飛び込んで遊んだ。雑草達から沢山のエネルギーをもらい元気になっていたのだ。又幼な心に、雪の中から見えた赤い藪椿や、仄暗い川沿いの木の下に咲く石(しゃ)楠(く)花(なげ)を美しいと感じた日々。いつも植物達の息遣いを感じ生かされていた。
 時代が変わって、雑草達の住む場所は少なくなったが、都会の片隅にもコンクリートの隙間にも花壇の隅にも住宅街の庭にも、逞しく生きている。命を繋ぐため無数の種子を飛ばし、蜜蜂達に交配してもらうため、気が遠くなる程の作業をしながら、変わらない姿で生きている。一生懸命さと生命力で生き延びている雑草は、コロナで世界中の人間達が翻弄されている姿をどう見ているのだろう。

人を見る時も、成果ではなく、一生懸命生きているか、どう生きているかを見たい。何かの為に一生懸命でありさえすればキヤベツについた水玉の様に、大きさも色もちがって誰でも輝いているはずだ。小さくても何処かで誰かの力になっている。その小さな輝きに気付く事が大事だと思う。草花の咲く野山に行くと無条件の癒しと懐かしさに包まれることを忘れてはならない。  

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 それなりの人生を生きてきて

 「美しい人はより美しく、そうでない人はそれなりに」樹木希林さん演じる富士フィルムのCМは、今でも印象深く残っている。この言葉は人生にも当てはまる気がする。それなりの人生とは、社会的な成果に関係なく、一生懸命に生き人を愛する事ができていれば、どんな人も価値があると言う事ではないだろうか。

 後期高齢まで生かされ、振り返ってみると、ある時期、好きな事に熱中した事があった。
 高校二年の時、美術部に入って始めた石膏デッサンだ。一作一作出来上がっていく時の達成感があり、誰よりも早く学校に行き、授業の始まる前に練習し、放課後もした。三年になると、東京の美大に行こうと友人から誘われたりもしたが、終戦の年に生まれ、引き揚げ、十一歳の時に父親が他界。経済的に無理なのと、自分の力にも自信がなかったので夢は追わなかった。しかし描く事は楽しく、家に帰ってからも暇さえあれば絵を描いていた。スケッチブックには、母の顔、赤ん坊の甥っ子、テレビ、アイロン、等々昭和三十七、八年時代の身近な生活風景を沢山描いている。セピア色に変色した画用紙から、当時の生活が生き生きと伝わってくる。
 
 高校時代もう一つ熱中したのが読書。本好きは小学四年生の時、転校して世界の名作童話を読むようになってからだ。中学三年の時パールバックの「大地」の感想文が、福岡市のコンクールで入賞している。
高校生になると一人でひたすら読んだ。外国文学が主で、ドストエフスキー、ロマンロラン、アンドレジッド等、色々代表作は読んだものの、記憶にあるのはモーパッサンの「女の一生」位だが。
高校を卒業して就職すると多少収入ができ、友人と映画や小旅行等にも行けるようになり、楽しくて読書も絵画も全くしなくなった。

 四年間で社会生活が終わり結婚生活に入ると、子育てに追われた生活だったが、三十八歳の時主人の海外転勤でマレーシアに一緒に行った。国の民族衣装にバティックという蝋結染めがあり、その美しさに惹かれ、友人と国境を越えシンガポールまで習いに行った。習った期間は二年間位だったが、帰国後も何点か描いている。バティックは布に描く染物で、絵とは違った面白さがあり、第二の熱中時代を迎えた。
 何故あんなに熱中出来たのか。若さもあったが絵を描く対象である、質素な日常生活や南国マレーシアを愛していたのと、成果を求めない事で熱中できた。
 
 早く働いて、人並みの生活が出来る様になる事が夢だった高校時代。就職でき、その後は一生懸命現実の生活を生きてきた。
 六十歳になって再び身近な孫達や山の畑の景色を描き始めた時、高校時代の絵画の基本が役にたった。当時は成果も出せず、就職活動に役立つ事も無かったが、唯好きで熱中した事は、決して無駄ではなく貴重な時間ではなかったかと思う。
又六十代後半、あるきっかけで、ペンクラブに入会する事ができた。文章は特に書く事も勉強した事もなかったが、クラブの方々の作品を読ませて頂き、N氏の「文章の作法」を参考にさせてもらい乍ら段々楽しさが増してきている。その上絵まで掲載して戴くようになり、そこからバティックの絵を太平洋展へ出展するきっかけに繋がった。

 現実の生活とは別に、誰でも好きな事や自分しかできない事がある。すぐに成果が出なくても何時か役にたつ事もあり、認められなくても目に見えない力がついて、その人の魅力になる。できる時にできるだけでいい。何かを愛し一生懸命やれば、成果に関係無く力になっている。それがそれなりの人生の価値なのではないかと思う。

 僅か四年間位熱中した事が、五十年弱のブランクを経た今、生活を潤してくれている。
 高校時代に描いた母の絵の口元が「よかったね」と言っている様だ。
 これが私の「それなり」の人生である。
 
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 偶然の賜物「受賞顛末記」
 
 知人の息子さんが油絵画家で、十年程続けていた画材店の一室での個展が、昨年は博多の中心地中州にあるアクロスというビルの二階での展覧会になった。

 毎年観に行っていたが最終日のこの日は四時迄でぎりぎり間に合い、彼の絵は高い山の頂上を描いた絵で心に響くものがあった。彼に絵はがきはないかと聞くと、いつも個展をやっている画材店にはあるとの事。閉店時間も迫りバスでは時間がかかる。幸い福岡市から高齢者に配布される乗り物無料券を、バス電車ではなくタクシー券にしていたので店迄飛ばした。
部屋に入ると彼はすでに到着していて、今迄の作品が飾られていた。
そこにもう一人見知らぬ男性が絵の批評をしていて部屋には三人だけだった。絵はがきを購入し、バティックの絵が表紙絵になった「悠遊」27号と手作りのエッセイ集「感謝V」を彼に渡した。表紙絵はマレーシアで描いた蝋結染めの絵だと説明していると、男性も観たいと言われ、エッセイ集の中にも載せているバティックの絵も観て、自分は仕事でインドネシアに何度も行った事があり、同じ手法の手描きのバティックの価値は解ると言われた。そして来年の太平洋西日本展の染織の部に出す様勧められた。彼が「僕が手続きをします」と言った通りの運びとなり、今年六月二作のバティックの絵を染織の部に出品し「マレーシアの想い出」がカシキ美術賞、「コーヒー娘」が入選と思いがけない結果を戴いた。

 この偶然の出会いがなかったら、三十年程前主人の転勤で行ったマレーシアで現地の人から学んだバティックの絵は自宅や山小屋に飾っただけで、他は物置に眠ったまま終わっただろう。
 この年だけタクシー券を取得していた事、居合わせた男性がバティックに精通していた事、この年私の絵が「悠遊」の表紙絵だった事、これらの偶然が重なって、存在すら知らなかった太平洋展の世界に導かれる事になった。
三つの偶然の賜物に感謝したい。

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 スズメバチに問う

 初夏になると、山小屋のベランダの軒下に「ハチ超激取れ、スズメバチも捕獲」という容器を二つぶら下げる。中に入れる液体は付いていて、色は薄い黄色なので中は見える。初めは半信半疑だったが吊るしてみると驚く程よく捕れる。
山の畑で野菜を作るようになって色んな蜂に出会ったが、彼らは野菜の交配に不可欠だし、殆ど危険性は無い。唯三センチ位の大きさに羽音とスピードのスズメバチだけは、何かの偶然で刺された時の恐怖は拭い切れず、ホームセンターで見つけた前述の容器を吊るすようになった。夏場ベランダで食事をしている時、鈍い羽音がし、耳元を猛スピードで何か飛び去ったかと思うとスズメバチで、激取れ容器に一直線。それからぐるぐる容器の周りを廻って離れず、そのうち中に入ってしまった。
 その後も、次から次へと飛んできては、様子を見ながら入ってしまうので意外に早く満杯になる。液が無くなると、日本酒に黒糖を入れた自家製の液でも効果は変わらない。匂いにも敏感だが、視力もしっかりしていて天敵である熊の黒い色には反応し、黒い服は着ない方が良いと言われる程だから、中の様子がよく見え溺れていくのが解る筈なのに何故逃げないのだろう? 中の蜂が助けを求めて信号を送っているのだろうか?様子を見に来る蜂は数匹の時もあるのに皆入ってしまう。話し合った結果なのか?

 中の様子を見るかなりの時間、その時私はスズメバチに問いたい。本当に助けようとして入るのか、運命共同体なのか、他に道は無いのか、迷いは無いのかと。

 スズメバチは侵入してくる相手に「これ以上近づくなら刺す」とあごから音を出して警告する見張り役がいるという。出来る事ならこの見張り役にあの山小屋には危険な罠があるので近づくなと警告して欲しい。蜂そのものは野菜についた虫等食べてくれる益虫でもあると思うとそれが望ましいけれど、今年も夏になると「超激取れ」を吊り下げざるを得ない。

 
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 縁側のある風景
 
膝が悪くなって自宅から行ける範囲で三十分程度の散歩をするようになった。六十年程前、博多区麦野地区に福岡市から分譲住宅が売り出された。六十坪程の土地に、建坪が二十坪で三K、縁側付きの木造平屋住宅。主人が高校生の時父親が買い、移り住んだ頃は周りには田んぼが広がり、西鉄電車が遠くに走っているのが見えたという。

 結婚と同時に他県への勤務となり、親とは離れたが、義父は川釣りの道で取ってきた山桃や藪椿の木を庭に植え、小さな池を作って鯉を育てた。里帰りした時はこの池で孫達とよく遊んでくれ、その様子を縁側から見て皆で楽しんだ。夜は縁側に腰かけ、線香花火をした事も忘れられない。
陽だまりの縁側で趣味の囲碁を近所の友人と楽しむ義父や、友と庭を見ながらよくお茶をしていた義母の姿が今も目に浮かぶ。庶民的な家の大きさ乍ら、決して玄関から入らないご近所との縁側付き合いは奥が深い。
 同じ頃、私の実家の縁側でも法事で撮った集合写真が何枚かある。

 三十年後に再び福岡勤務となり、父母の家を建て替え、健在だった義母と同居した。一階の義母の部屋と和室には縁側をつけ、義母は近所の友と昔のように庭の花を見ながら、陽だまりの縁側でお茶をする事が十年程続き、月日は流れた。
 気がつけば周りは、新しい住宅やマンションが広がり、庭は車庫に変わっていった。

 散歩するようになっていろんな路地に入ってみると、近所では見られなくなった六十年前の分譲住宅が数軒、多少改築等しているものの昔のまま残っていて、タイムスリップしたような気分になり、縁側での思い出が駆け巡る。
和室は殆ど作られなくなってきているという現在、縁側や庭も消えていくのだろうか。機能性が求められる中、そこには無駄があるかもしれないが、何か大切なものがあるような気がしてならない。
そんな家の前を散歩していると「お茶でもどうぞ」の声が聞こえてきそうで、人気のなくなった家を思わず覗きたくなる。
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魅せられて

 野菜作りを始めてかれこれ二十年以上になる。全くの素人で、山を切り開いた土地を買った為、畑の土作りから始まった。又孫達に安心して食べて貰えるよう、無農薬と有機栽培で育てた。ようやくそれなりにできるようになっても、災害や気候の変化で駄目になったり猪に一夜にして食べられたりする。鳥や虫達からの被害もしばしば。それらとの闘いはきれい事ではすまされない。

 ある時首すじに何か触るものを感じて思わず払いのけると百足だったり、土を掘っていると大きなガマカエルが顔を出し、傍をヘビが通ったりもする。又葉の裏にはパリコレ顔負けの鮮やかな緑に黒の水玉模様のデザインの芋虫や、某国の兵士のように整列した毛虫が全体にはりついて、刺されると痛い。
 また、良くできても店にでている価格の安さに愕然とし、農家の苦労を思う。
 正に汗と涙の中で続けてこられたのは、この場所の空気と景色の良さ、野菜の美味しさと美しさに魅せられたからだ。遠くに青く見える背振山や九千部山、眼下に広がる針葉樹と落葉樹の深い森は四季折々の美しさで目を楽しませてくれる。
 
 玉ネギ、ジャガ芋、里芋、にんにく、生姜、夏野菜、苺、スイカ等色々作った。形は悪いが、味や色は格別だ。
孫達は曲がったキュウリを丸かじりするのが大好きだし、人参は青臭さが残る懐かしい味がし、ホウレン草の根本は独特の旨みがある。
 ブロッコリーや青菜をゆでた時の緑色は、市販にない絶品の鮮やかな美しさだ。又一皮剥いた白ねぎの輝き。赤玉ねぎの深い赤紫の色、赤カブの可愛いピンクの色。
 魅せられてここまできたものの、動物や虫達との闘いは進行中。その中で折り合いがついたのが蜂との関係だ。雀蜂は別としてよく来る蜂は、彼等に触れたりしない限り刺したりしない。ぶんぶんとうるさい蜂達の傍での草取りでの一句。

   蜂は蜂 私は私 ただ仕事 

これからの闘いの課題は私達自身の体力がいつまで続くかだ。
蜂も見ているに違いない。

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待合室での一言
 
 恐れ入ります」と言う言葉が、待ちくたびれてうとうとしている時、耳元で聞こえてきた。膝痛で通っている整形外科の待合室での事だ。今はあまり使われなくなった言葉に懐かしさのようなものを感じ思わず声の主を見ると、ごく普通の同年代位の女性だった。コロナで緊急事態宣言の出ている中、評判が良いこの病院はいつも混んでいて、席の間隔は開けてあるが近くだとよく聞こえる。
 初めて来たらしいこの女性に、受付の人は座っている彼女の傍まできて何やら色々説明をしていた。詳しい内容はわからないが、話の合間に女性は何度も「恐れ入ります」と言っていた。暫くすると、私より先に彼女は看護師に呼び出され、指定された番号の部屋に入って行った。その時もその言葉が二度程聞こえてきた。

 忘れかけていたこの言葉は、最初丁寧すぎるように感じたがごく自然に彼女が言っているのを聞いて、日本人らしい表現でいい言葉だなと思った。「恐れ入ります」を調べると迷惑をかけて申し訳なく思う、相手の厚意に対して恐縮する、お願いやお礼の時に使うとある。

 四十代後半で某会社の営業を長年している息子にこの話をすると、仕事の時には「恐れ入りますが」「恐縮です」「申し訳ございません」等よく使っていると言う。そんな中で英語的な「了解しました」と日本的な「承知しました」とでは、相手の立場への配慮がある後者の表現が信頼されるのでよく使うと言っていた。ビジネスの世界ではまだ生きているようだ。日常生活の中では手紙等でそういう言葉も使われているが、これもメールの時代になると遠ざかってきている。あの日は改めて日本人らしい日本語を聞いたような気がした。
 彼女の呼ばれた後私も呼ばれ、看護師さんに同じ言葉でと思ったが、何か気恥ずかしく「有難うございます」としか言えなかった。

 幸いにも膝痛は軽くなり通院は終わった。
 いつの日かごく自然にその言葉が出るようになりたいものだ。

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 川辺のラヴ・イズ・オーヴァー
 
 吸い込まれる様な青空、心地良い風に吹かれ、福岡市西方にある室見川の広い土手の中の遊歩道を主人と散歩していると、何処からか管楽器の曲が聴こえてきた。
遠くに橋が見え、近づくと音は橋の付近から出ている。
見ると川の向こう側の橋の下で、一人の若者がサクソフォンを吹いている。思わず足を止めて聴いた。繰り返し同じ曲で、時々やり直しているので練習中なのだろう。 
聞き覚えのあるその曲は、かなり前にヒットした欧陽菲菲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」だった。五月晴れの川辺は、青々とした草が風に揺れ木々の若葉が輝き、サクソフォンの音色は何処までも響きわたり心に滲みた。
遊歩道の散歩者達も、そして橋の上で立ち止まって聴いている人達もいた。

 その日は、運転免許証の更新の手続きで最初の難関、認知症検査の日。五十年ぶり位に受けるペーパー試験は本当に心配だった。ついに後期高齢者となり、認知症検査は必須科目、七十六点以上とれば、後は実技と適性検査、講習だけで気楽だが、四十九点以下は病院の検査を受けなければならない。
無事合格ラインを通過。晴れ晴れとした気分で主人と合流、免許センターを出たのが昼過ぎだった。
コンビニで弁当を買い、車を走らせていると室見川が見え、川辺の土手の中にある運動公園で弁当を開いた。
丁度コロナ騒ぎで、緊急事態宣言がまだ解除されていなかったが、好天気に誘われ、子供連れや高校生のブラスバンドらしい生徒が数人練習していた。
草の上で暫く横になった後、公園の先にある遊歩道を散歩していると遠くから音楽が聴こえた。
それが前出の「ラヴ・イズ・オーヴァー」だった。

 人生を振り返ると様々な多くの音楽に出会っている。
戦後の混乱期に山奥で育ったので、音楽は学校で習うか時たま聞くラジオから流れる歌が全てだったが、不思議によく覚えている。小関裕而の「鐘の鳴る丘」「高原列車は行く」「黒百合の歌」他に少女時代の美空ひばりの歌等一番だけだが今でも歌える。九歳で福岡市に移住。中学校ではクラシックの音楽鑑賞の時間があり、感想文は先生に褒められた。高校生になると、すでに社会人になっていたシャンソン好きの長姉の影響で「枯葉」「詩人の魂」「パリの空の下」等日本語で歌う歌手も出てきてよく聴いた。

 十八歳で社会人になり、薄給ながら映画も観られる様になった。「太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」「道」等沢山観たが、主題歌が素晴らしく忘れられない。又歌声喫茶ができ、ロシア民謡等を友達と歌った。他にもタンゴやラテン系の音楽、ジャズ等あったが、コンサートに行く程の余裕もなく、レコードも持っていなかったので、偶然聴いたラジオやテレビの音楽番組等が記憶の全てとなった。
そんな青春時代、ラジオでよくビゼー作曲「真珠採り」の第一幕の曲が軽音楽と共に流れていた。聴く度に明るく広々とした海が浮かんできて、希望と淡い出会いへの期待が湧き、好きな曲の一つとなった。その頃カラヤンやビートルズの来日が、職場で話題になっていた記憶がある。

 二十二歳で結婚して、長男を出産した時、当時テレビドラマで人気の「飛び出せ青春」の主題歌「太陽がくれた季節」が頭を駆け巡りはじめ退院する迄続いた。又三十九歳の時、主人の赴任先マレーシアで母危篤の知らせを受け帰国、何とか間に合ったが他界。マレーシアに戻る飛行機の中で、何故かフォークソングの「バラが咲いた」が着陸するまで頭の中で続いた。この後、この国では珍しい赤い野ばらが、庭先に待っていた様に二輪咲いたと、短い詩を書いている。

人生の大きな出来事の時、思いがけず出会った曲。
長男誕生で「太陽がくれた季節」。母との別れの時、「バラが咲いた」。二〇二〇年五月、八月には満七十五歳を迎える時サクソフォンの「ラヴ・イズ・オーヴァー」。

歌は世につれ、世は歌につれではないけれど、どれ程多くの名曲が心の支えになっているのか計り知れない
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 法事にお赤飯
 
 その方の作られたお赤飯とかしわ御飯を最初に頂いたのは,20年以上前になる。
かしわ御飯とは福岡の郷土料理で、鶏肉と椎茸や野菜を細かく切って作る炊き込み御飯のことだ。
その方と遠戚となって以来、法事や行事等で会う事が度々あったのだが、その2セットをその方は必ず持参された。いつも同じ味付けで特別な作り方でも無いようだが、食べると何故かホッとして心が落ち着く。その美味しさは他にご馳走があっても何か違う感じがした。
 その方の人柄は、料理その物の様に、人を和ませるものがある。
明るくゆっくりした話し方、その声その眼差しは、周囲をいつの間にかすっぽりと優しく包み込んでしまうのだ。
 私は食べるのが大好きだが、グルメではないので一流の味は判らないが、彼女の味は何処かそういうものを超えている気がする。
 
 一般的にお赤飯はお祝いの時に作るが、彼女は法事の時にも必ず作るという。
ずっと後になって人伝に聞いたのだが、それは亡くなられたご主人の大好物だったからだそうだ。何かある度に、作られずにはいられないご主人への思いが詰まっている味なのだ。
 若くしてご主人を亡くし、和服を仕立てて生計をたて、女手一つで忘れ形見の娘さんを立派に育てられたその方は、苦労も多い中、ご主人への愛を心に秘め生き抜かれたのだろう。
 
 私事になるが、私の母の得意料理は巻き寿司だった。
父亡き後、母は親戚の法事や行事の度、巻き寿司作りを頼まれ、お裾分けで持って帰られた寿司の端で私は味を覚えた。特に作り方を教えてもらった訳ではないし父の好物だったかどうかも知らないが、私もいつからか子供や孫の運動会には必ず巻き寿司を作る様になっていた。母は巻き寿司の命は干瓢だと言っていたので、私なりに干瓢にはこだわって母の味を心掛けた。

 ある時小学校の高学年になった孫が干瓢だけの巻き寿司をつくってくれと言った。
母の思いが曾孫に伝わったのだろうか
 手料理の味というものは、人生そのものの味と言えるかもしれない。
 
 
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 クレダガルボの「ニノチカ」を観て

  NHK BSシネマでグレタ・ガルボ主演の「ニノチカ」が放映され、心が踊った。初めて見る映像の彼女の美しさは、時代を超え洗練された都会のキャリアウーマンを思わせた。
映画は1939年アメリカ、エルンスト・ルビッチ監督。モノクロ製作。

 ロシア革命後、貴族から没収した宝石の売却の任命を受けたソ連の女性特務使節の、パリでの行動と恋を描いたコメディ。政治的な背景を織り交ぜながら、自由におしゃれや食事を楽しみ、笑う事の大切さが、唐突な展開ながら、さり気なく明るく描かれている。映画の中でクールさが売りのガルボが笑う事でも話題になった。共産主義への批判とも取れる結末だが、資本主義の問題もあちこちに散りばめられている。第二次世界大戦も始まった時代に、これ程風刺に富んだ内容をスマートに表現したハリウッド映画に歴史を感じた。

 スウェーデンの貧しい家庭に育ったガルボは、その美貌と演技力でハリウッドの歴史を変える女優になり、日本でも知られるようになった。私は以前、朝食に行くレストランでよく見る老婦人の事を「喫煙室のグレタ・ガルボさん」という題で、エッセイを書いた事がある。これを読んだある紳士は、近くのコーヒー店に行く度に妙齢のご婦人を捜す癖がついたとの事。顔の事は一言も書いてはいないが、ガルボという名前は現代でもかくも影響を与えるのだ。

 女優として成功してからもマスコミを避け、36歳で引退した後も公の場には姿を見せず84歳で没している。彼女の残した言葉に
「私は疲れて、神経質になってアメリカにいる。生きていることもわからなくなる所ね」
「これまで見たものの中で最も美しかったのは、腕を組んで歩く老夫婦の姿」というのがある。

 世界的な名声と成功を手にいれながら、それに執着せず、スターの座を去る時の潔さと、自分らしく孤高に生きた生涯は彼女の美学であり、クールでミステリアスな伝説の女優としていつまでも記憶に残るだろう。

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  ペンクラブの会報「悠遊」の 表紙絵に掲載
 
「書く」ことに興味を持つ人に門戸を広げ、東京に本部をおく任意団体「企業OBペンクラブ」に入会し、約5年を経過した。
この会は、会員数約80名、仕事を卒業したOBの方以外に主婦やキャリアウーマンなど多彩な人の集まりで、毎月の「月例会」や分野ごとの「分科会」、年1回の全会員投稿による会報「「悠遊」の発刊、インターネットによる作品の一般公開など、活発な活動を行っている。

私は数か月に1回、エッセイを中心に投稿し、その作品を本ホームページにも掲載している訳だが、数年前から年1回発行の会報「「悠遊」に、絵画も投稿するようになった。

今回、その会報の表紙絵を描いてほしい と頼まれ、やむなく投稿することとなった。
投稿後の評価が気になったが、なかなか好評で安堵している。

頂いたコメント例 
 「悠遊」の文字色や書体がすっきりと上品になりましたね。これは松浦さんの筆でしょうか。そのシンプルな「悠遊」文字が、この孔雀絵の優しさ、色彩の豊かさ華やかさをますます際立たせているように思います。それにしてもこの点描の見事なこと!
 
掲載された2020年5月発刊 「悠遊」27号に掲載された私の「孔雀の絵」 
 

 他の会員の絵が掲載された過去3年間の表紙


過去に投稿した 裏表紙の絵(毎年数名の方の絵が掲載される)
 
2017年 「悠遊」24号 裏表紙の絵 (右は私の絵の拡大図) 
    

2018年 「悠遊」25号  裏表紙の絵(右は私の絵の拡大図)
   
 
2019年 「悠遊」26号  裏表紙の絵(右は私の絵の拡大図)
   
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 脇役のススメ

 我が家の庭には、藪椿や山桃の木があるが、川釣りが趣味だった義父が、釣りに行った帰りにみつけ、植え育てものだ。その他に主人が家を建て替え移り住んだ時に植えた楓等がある。そう広くもない庭は、やや鬱蒼とした感じになったが、小鳥も飛んでくるようになり、爽やかな小鳥のさえずりで目覚める事もある。

 春の足音と共に、藪椿の花が咲き始めると、楓の新芽も出てきて、根本には”しゃが”や”スノーフレーク”の花が咲き始め、五月になると美しい黄緑色になる。秋になれば緑から鮮やかな紅葉に染まっていく。
 こんな樹々の下は殆ど日陰で、日光を好む花は育ちにくく、野の花を植えるようになった。山小屋に行く道のりの鬱蒼とした林の下に咲いている”しゃが”、”山ゆり”、”ツワブキ”、”水引草”、友人からもらった”えびね蘭”や”すずらん”、”ほととぎす”や”愁明菊”、地味ながらどの花もそれなりに楽しませてくれる。その中で切り花にして生けられるのは少ないが、私が好きなのは秋の花で”ほととぎす”と”愁明菊”の組み合わせだ。”ほととぎす”の斑点ある沈んだ紫色の花の中に一重の純白の”愁明菊”を生けると、何か凛とした美しさを感じ身が引き締まる。

 春の田舎道で”たんぽぽ”や”土筆”、”蕗のとう”等目にとまると、ふっと懐かしく心を癒される事も多いけれど、日頃は忘れ去られている。この草花達は花屋の店先に並ぶことはないが、どんな環境の中でも強く生きているのを感じる。
 旅先の新大阪駅の前で、街路樹の下のコンクリートの隙間から”あざみ”の花が咲いていて驚いた。又、畑の野菜や花の中の雑草をとる時、雑草にも目があるのではないかと思われることがある。そっくりの姿で、引き抜かれないようにして身を守り、根には野菜や花の数倍の長さで巻き付いている。その生命力の強さと必死さに圧倒される。けれど、花屋の店先に並ぶのは花が主役で、草花や雑草は脇役である。花と葉の関係でいえば、花が主役で葉が脇役だけれど、葉があるからこそ花はより美しく輝く。

 映画も名脇役がいて、名前も出ない通行人の人達もいてこそ主役がひきたち、素晴らしい映画になる。バラをはじめ店先に並ぶ色とりどりの花,桜の木の下での宴会、それはそれでいいものだけれど、昼なお暗い林の中で咲く花や、太陽の日差しはあっても劣悪な環境の中で手入れもされず咲いている野の花や雑草達。この地球に植物として生まれた命を繋ぐためどれ程一生懸命かを知る人は少ない。人間が作った価値観は、見た目の優劣に基準がおかれ、主役に選ばれた花達が店先に並ぶ。我が家の庭の花は脇役ばかりだが、とても満足している。
 人を見る時も、目に見えない心の優しさや純粋さ、誠実さ、一生懸命さを大切にしたいものだ。

 脇役のススメは、主役になれなかった自分への応援歌でもある。
 
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 豪雨後の朝倉と農業
 
 2017年7月の豪雨から二年過ぎた2019年の秋、朝倉の山間の地黒川も稲刈りのシーズンを迎えた。この地の一人の米農家の方が、残った農地で以前からやっていた小学生を対象に、稲刈りの体験学習をされるというので応援として参加した。

 秋晴れに恵まれたその日、子供達が来る前に現地に行き、子供達の弁当を食べる場所の用意や、三段になっている田んぼの畦道に、人数分の釜を用意して待っていた。参加したのは、福岡市の小学四年生で、一四〇人、三台のバスが並んだ。子供達は三班に別れ、夫々の田んぼで、稲を刈る者、受け取って並べる者、脱穀機に持って行く者と役目を決め始まった。子供達は戸惑いながらも、声をかけかけあったり歓声をあげたりして楽しげで、一緒にやりながら、怪我をしないようにだけ注意した。私の受け持った田んぼが最初に終わり、落穂拾いをする余裕もあったり、まだやりたいと言っている子もいた。
 最後に主催者の方が、刈り残った稲を、稲刈りから脱穀までできる大きなトラクターに乗り、皆の前で実演され終わった。そして今はこうして機会でできるようになったが、米作りの原点は、人力でやる田植えと稲刈りから始まっている事を話された。

 それから子供達は、近くの栗林の木の下で弁当を食べ、見送られながら帰った。

 この黒川地区は山奥という事もあり道路もかなり復旧したとはいえ、まだ完全ではない。米農家と梨農家が殆どだったが、以前の三分の一程になってしまった。それでも主催者の方は、子供達の体験学習やるのは、体験する事で必ず記憶に残る、それを伝える事が自分の思いだと話された。
 稲刈りの後に、目を輝かしてもっとやりたいと言っていた子がいた。心の中で思った子や記憶に残った子はもっといるにちがいない。

 その思いが伝わって来るのは子供達だけではない。豪雨の半年後数人で、やっと通れるようになった簡易道路をがたがた揺られながら、この方の家を訪ねた事がある。
 一月の寒い中、私達を家に残して、一人で新種の里芋を掘りに行かれた。
百年以上たった古い家で待っている間に、奥様が畑で獲れた豆を焦がさないように二時間もかけて炒って煎じたお茶を頂いた時は、身体の芯の芯まで暖められた。
 帰る時に、小雪の舞う外で泥つきの里芋を素手で洗って、皆にお土産にくれた。育てた物を大切に生かす思いは、その日のでき事でより強く伝わり、できたものは無駄にしなくなった。

 豪雨後この地の主婦達が、殺風景になった地にコスモスを沢山植え、人をよび、その花びらでドレッシングを作り商品化した。
 市では豪雨の土砂を利用して水田を作るプロジェクトを立ち上げ、流域部の農地に真砂土と粘性土を混ぜ、実証実験をして田植えをした。
 又以前から交流があったアフガニスタンに、朝倉で保存されていた日本の伝統的な農機具、足踏み脱穀機や、江戸時代から使われていた、藁くずやもみを選別する、唐箕という機具も贈られるという。又2,011年の大震災の地宮城から、再生のシンボル桜の木が贈られ、交流は深まり広がっていく

 2019年も台風の影響で大きな災害に見舞われ、日本中人事ではない時代になった。それでも自然と共存していくしかない。一束の米の重み、一粒の米の重みはあの日の子供達の記憶に残ったに違いない。厳しい自然と闘いなから諦めることなくここまで来た日本の農業の歴史がこれからも続くことを願って止まない。
   
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 ドッチボール、かくれんぼ、蝉とり  「幼き日々への誘い」
 
 我が家のすぐ近くに、通称「三角公園」と呼ばれている公園がある。
 ブランコ、すべり台、鉄棒等の遊具もあり、それ程広くないが真ん中に遊べる土地があり、周りには桜の木が植えられている。
 春はお花見、夏は盆踊り大会、冬は餅つき大会で賑わう。
暖かくなると、夕方この公園には毎日近所の子供達が遊びに来て大きな歓声をあげている。
 ドッチボールの他に、鬼ごっこやかくれんぼ等いろいろやっているようで、暑くなって窓を網戸にすると「もういいかい」の声や「ジャンケンポン」と一斉に言っている掛け声が家の中まで聞こえてくる。この令和の時代、空に届くような楽しげな歓声と「もういいかい」の声は、忘れていた昔の幼き日々へ誘ってくれた。

埼玉にいた息子一家が、小学一年になる息子を連れて、二年前に我が家の近くに引越ししてきた。この学校では六月にドッチボール大会が親子共々ある。男の子の参加は三年生までなので、公園に来ている子供達は幼稚園児から小学校低学年位までが多く、練習も兼ねてやっているようだ。
 物干し台から見える公園の様子があまりに楽しげで、洗濯物をとりいれながら見入ってしまった。
 ドッチボールの時は、小さい子には当てない様にしたり、リーダーらしき子が教えたりもしている。自信のない子もおずおずしながら少しずつ参加し、見ているだけの子やスマホでゲームをしている子もいない。親や大人の目もなく、年齢も技も様々の中、子供達だけで一緒にやる事で練習ではなく遊びになっている。その延長に、かくれんぼや鬼ごっこ等があるようだ。
 私も小学生の頃、ドッチボールの強い球を胸と両手でしっかり取れた時、嬉しくて歓声をあげていたし、鬼ごっこをした時の姿は、髪をなびかせ大粒の汗をかいて追いかけっこをしている女の子の姿そのままだった。

 七月に入って蝉が鳴き出すと、蝉取りが主流になり、遊ぶ子達も暑さで少なくなった。買い物に行く途中、虫籠をかかえている女の子に「何匹取れたの?」と聞くと「二匹、くま蝉とあぶら蝉」と名前も教えてくれた。涼しい目をして「逃がしてやった」と言うので「えらいね」と言うと笑顔が返ってきた。幼い頃、蝉を捕まえ両手の中に入れた時、羽と足のチクチクした感触や、蛍を捕まえて手の中で点滅する光に見とれていたこと等が思い出される。

 戦後の苦しい社会情勢の中、テレビは勿論おもちゃやゲーム機もなかった時代、暖かくなると、川で泳いだり、木に登って実をとったり、とんぼや蝉を追いかけまわし日が暮れるまで遊んだ。
 豊かではなかったけれど、子供達だけで自由に遊んだ日々がふと蘇ってくる。
 今は遊びさえも大人達のコントロールの下になっていく時代。小さい時からスポーツや習い事をするのもいい事だと思うが、遊びだけの世界も大切な気がする。
 大人の目から離れ、競うのではなく、子供達だけの遊びの世界から子供達自身が培っていく事も多いと思う。響き渡る歓声や「もういいかい」「まあだだよ」等の声が、何処かの公園から聞こえる日々が無くならない事を願うのは私だけだろうか。

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 ある微笑
 
 人生の中で笑顔は、誰にとっても心地よく感じられ、心を癒してくれる力がある。大きな災害に見舞われた時、一日でも早く笑顔に戻れる日が来る事を、皆、願わずにはいられない。
 又、笑顔にはいろいろあり、星の数のように無数にあるような気がする。例えば同じ赤ん坊でも一ヶ月、三ヶ月、半年、1年の笑顔は違うし、幼児期から少年少女になると又変ってくる。
 大人になると年齢的な表われ方ではなく、それまで生きてきた証が出てきて味わい深くなる。数年前某テレビ局の100歳の方達の特集を見た事があったが、どの人の笑顔も素晴らしかった。

 私も沢山の笑顔を見た中で、数ヶ月前にとても印象に残る笑顔に出会った。主人と時々朝食に行くカフェレストランでの事だ。ここの店員さん達は四、五人の交代制になっていて、皆顔馴染みである。二十代から三十代くらいの女性が多く、皆笑顔で迎えてくれ、笑顔で送ってくれる。その中に新顔が入って来た。細身の華奢な身体つきの女の子で、まっすぐな黒髪に帽子をかぶり、色白の小さな顔にはまだ幼さが残っている。ある日の朝、その彼女と偶然洗面所でいっしょになった。大きな鏡の前で、手を洗うのが同時になりふと笑いがこみ上げ、目があったので「おいくつなの」と聞くと「高校生です」と答えた。その若さに驚き、ここで働き始めたのは何故だろうと思いながら「頑張ってね」と言うと嬉しそうな表情を見せ、短い会話を交わして出た。
 そんな事があった数日後、朝食に行くと彼女がいた。私に気がついた彼女はハッとするような満面の笑顔を向けてくれた。その時の笑顔は特別な印象で今も残っている。
 他の店員さん達もいつも笑顔で応対してくれるのだが、あくまで客に対する笑顔だ。その時の彼女はそれとは違っていて、数日前言葉を交わした人への無心の笑顔に感じられた。
 高校生でありながら、何かの事情で働き始めた不安の中、何気ない会話が嬉しかったのかもしれない。その微笑は、子供ではないけれどまだ大人でもない、その短い時期にしか見られない美しさがあった。

 彼女は暫くすると、仕事にも慣れてきて、とても手際よく応対してくれるようになり、制服姿も板についてきた。
 ある時、会員証をレジに忘れた事があった。駐車場の車に乗ろうとした時、彼女が顔を真っ赤にして走ってきて会員証を渡してくれた。お礼を言うと、又あの時の満面の笑顔が返ってきた。日に日に他の店員さん達と同じ様に仕事をこなして、成長していく彼女を見ると、社会人としても立派にやっていくだろうと思う。彼女は、土曜、日曜だけのアルバイトだと後でわかったが、三月に入ってあまり姿を見なくなった。就職か大学受験なのかわからないけれど岐路に立たされる時だ。

 花などの水やりの時に太陽光線の具合で瞬間的に虹を見る事がある。それに似た、あの年齢にしか見られない美しい微笑をくれた彼女。家で彼女の顔を思い出しながら、似顔絵を描いて主人に見せると「彼女だとわかるよ」と言った。これから大人になる階段を元気に登っていって素敵な人生を送って欲しい。

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 九州北部豪雨の地 朝倉を見つめて
 
 2017年7月5日、九州北部は数百年に一度という豪雨に見舞われ甚大な被害を受けた。中でも酷かったのが福岡県の朝倉市と東峰村及び大分県の日田で、雨量は観測史上最大と記録された。朝倉市では、犠牲者33人、行方不明者2人、仮設住宅や、みなし仮設住宅となっている人達は340世帯を過ぎるという。
 
朝倉市は10年程前に農家と街の人達との交流をはかるグリーンツーリズム協議会を立ち上げ、主人は福岡市からそれに参加していた。私も果物狩りや餅つきの時は行って、知人もできていた。その中の一人の家が全壊と聞き、豪雨後訪ねた時は、その惨状に言葉を失った。

 豪雨の1年3ヵ月後、2018年10月、朝倉の主催で九州北部豪雨体験教訓バスツアーが企画され、黒川地区ツアーに主人と参加した。集合場所の道の駅の広場には当時山のように積み上げられていた流木がきれいに片付けられていた。以前は街の中にもいたる所に山積みの流木や泥土があり、泥の中に埋もれたままの車や、全壊又は半壊した家々の中に泥まみれになったピアノがあったりしたが、そういった光景もなくなり、一見復興しているかのように見えた。市街地を抜け、作物もかなり作られるようになった田園地帯を暫く走ると、山あいの黒川地区に向かって上り坂になり、寺内ダムの横を通りぬけながら行く。水面が見えない程ダムに浮かんでいた夥しい流木は、多少残っているだけになっていた。

 しかし黒川地区に入ると以前とあまり変らなかった。山の頂上から崩れ落ちた山肌に、根こそぎもぎとられた木々が倒れたまま斜面にひっかかっている。道路も壊れたままで、低い川底に作られた簡易道路を、がたがたと揺られながら進んだ。周りは洪水で流され、砂と石ころで広くなったままだ。この周辺は九州でも屈指の蛍の群生する場所だった。数年前家族と見に来た時は、清流を挟んだ二つの山全体がクリスマスツリーように蛍が点滅し、その幻想的な美しさは一キロメートル程続いていた。あれ程いた蛍達はもう帰って来ないだろう。そこを過ぎると小高い丘の上に梨園が広がっていたのだが、今も僅かに残って営業している所がありそこで梨狩りをした。試食の梨は美味しかった。崩れ落ちた山肌や、川の中に埋もれたまま残っている梨園の曲がりくねったビニールハウスの鉄骨を見ると、復興の地域差を感じ、故郷へ帰れる人達はどれ位いるのか、山を下りながら胸が痛んだ。

 九州一の大河筑後川中流には「山田堰」がある。江戸時代前期、新田開発のため朝倉に水を引くのに作られた日本で唯一の「傾斜堰床式石張堰」である。この作り方で「ペシャワール会」の中村医師は、15年程前から、干ばつで苦しんでいるアフガニスタンの農村に、現地の人達と堰を作り農業に貢献している。
又、堰から引かれた川は堀川用水路と名がつき、田んぼに大量の水が行くように工夫されて作られたのが揚水車群で、「三連水車」と呼ばれるようになった。200年以上前から動いている日本最古の水車だ。用水路と水車は国指定史跡である。この先人達の知恵と努力で朝倉は有数の米と柿や梨等の果物の産地となった。今回の豪雨の中で三連水車は奇跡的に残った。

 黒川地区の、ある米農家の方は「水田の半分も流されたが、ここでの仕事が自分をリフレッシュし、生きがいがあるのでここに骨を埋めたい」と言われた。豪雨後も試行錯誤して作られたこの方の新米を昼食に戴いたが、一粒ひとつぶに味があり本当に美味しかった。しかしこの米が全国の人に知られる日はくるのか。当時沢山来ていたボランティアの人達も少なくなりこれから本当の復興への厳しい道程が始まる。

 江戸の昔から受け継がれた土地を愛し、農業を愛し知恵と努力を惜しまない精神は生きている。
この精神が復興の力となる事を信じて、これからも忘れる事なく見つめていきたい。


参考ページ:朝倉災害教訓ツアーはこちら
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 山小屋は鶯谷
 
 小高い山の頂上にある山小屋の前は谷間のように低くなっているが、谷底にゴルフコースが少し見えるだけで深い森が広がり、自然のパノラマとなっている。森は針葉樹や落葉樹等の樹が混ざっていて季節毎に色彩が変わる。畑を耕しに週二,三回行っているが、疲れを癒してくれるのは常に変化する森の美しさと谷間から吹き上げてくる風の心地良さだ。

 春になると、この森から鶯の鳴き声が聞こえてくる。山小屋に泊った時、朝五時に目を覚ますとすでに鳴いていた。日が長くなっても完全に暮れるまでさえずっているので大変な働き者だが、まだ子供で練習中の時や音痴の鶯は「ホーホケキョ」にならないらしい。確かに時々「あれ?」と思う鳴き声も聞こえる。
 カッコウや山鳩等いろいろ他の鳥の鳴き声も聞こえてくるが、時間も場所もまちまちだ。しかし鶯の鳴き声だけは常に正面にある森の下の方から一日中聞こえてくるが、その姿は見たことがない。
この森の谷間から 青空に繋がる空間にはいろいろな鳥が飛び交う。ある時渡り鳥の燕が巣作りにきたのか谷間から山小屋の後方を集団で旋回したことがあり、その速さとカッコ良さに目を奪われた。その後も何度か来たが、何処かへ去って行った。いつの日か山小屋に巣作りしてくれたらと思う。又ツガイの蝶々が強風をものともせずつかず離れず飛んでいたり、名も知らぬ鳥や、無数のトンボが踊っているように飛び交ったりする。そうして生き物達が舞う時、常に鶯はさえずって、その声はマイク無しで山中に響き渡る。ここは生き物達のオペラ座なのだ。
決して姿を見せない鶯は舞台の下で演奏するオーケストラなのか?
 
 今年の四月思いがけない事がおこった。小学校に入学したばかりの孫を山小屋に連れて行った時、山彦が聞こえるか試したいと言いながら森に向かって「ヤッホー」と何度か叫んだ。山彦はかえらなかったが、鶯の鳴き声が聞こえたので、鶯の鳴き真似をしようということになった。孫が一生懸命声を張り上げて「ホーホケキョ」と言っていると「ホーホケキョ」と鶯が答えるように鳴いたのには皆驚いた。気を良くした孫は一段と声を張り上げ叫ぶとやはりちょっと間をおいてかえってくる。私達もあやかって叫んだが反応無し。
 孫と一緒に叫んでも駄目で、孫の声の時だけ答えるように鳴いてくる。大得意の孫は夢中で暫く叫んでいた。男の子の声はよく透って分かるのだろうか?老化した声は魅力がないのだろうか・・・。私達は少し落ち込み、孫は上機嫌で山を下りた。

 山を下りながらふとある思い出が蘇った。他の孫二人がやはり小学校に入ったばかりの頃、山で手作りカレーを出すと「うまーい」と前の森に向かって大声で叫んだ。それ以来美味しいものを出すと森に向かって叫んでいる。もう一人の孫は、畑の横の空き地に育てていた花が、ある日ブルドーザーで跡形も無く削り取られているのを見て森に向かって「バカヤロー」と叫んだ。子供達にとって森は何か気持ちを受け止めてくれるようなものを感じ叫びたくなるようだ。その頃も鶯は鳴いていたが返事はなかった。今は高校生なっている二人が「ホーホケキョ」と叫んだら鶯は答えるだろうか?孫達が一緒に叫んだ時鳴いて答えてくれたら、鴬少年少女合唱団と名付けよう。


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山小屋までの道のり(野の花編)

 福岡市内の自宅から、標高四百三十メートルの小高い山にある山小屋まで行くのに車で四十分程かかる。この道のりを十五年以上も往復しているが、飽きることはない。好きなのは二十分程で市内をぬけた後、那珂川町に入って暫くしてからだ。急に目の前に田園地帯が広がり、山々とまばらに人家が見え、のどかな景色となりホッとする。

 春になると、れんげの花の田んぼも所々に見られ、梅雨になると田植えが始まる。田んぼの美しさに魅せられたのは、ここを通るようになってからだ。丁度月夜に帰る時があり、水を張られた田んぼに月が映って水墨画を見るようだった。苗が生長すると田んぼは緑一色になり爽やかな風にゆれ、秋になると黄色から黄金色になる。この稲穂の深い色は絵の具では表せない。稲刈りの終わった田んぼの畦道は彼岸花の列で赤く染まり、農家の庭や土手にある柿の木には、赤い実がちぎられることもなく残っていて、日本の原風景を見る思いだ。

 田んぼの中の道のはずれに鎮守の森があり、ここを過ぎると山に向かい、道端にすすき等の植わっているなだらかな坂道となるが、途中から深い森林に入る。道は細く曲がりくねって険しくなり、周りは高い杉と檜に囲まれ昼なお暗く、いたる所に山から湧き水が出て冬場は道が凍結することもしばしばだ。夏はひんやりとして涼しいこの道は別世界に入ったようで、一瞬、現代社会を忘れさせるが、通い慣れていくにつれ、奥深さも分かってくる。真っ直ぐに伸びた杉や檜の美しさ、それがとぎれた所には落葉樹や楓が顔をのぞかせ、若葉や紅葉で変化をつける。
 道端には微かな木洩れ陽のなか、季節毎にいろんな花が咲く。あざみやオレンジ色の小鬼百合、山萩、水溜まりに咲く金平糖、杉こだちの下に群せいするしゃが、木にからみついて上のほうで咲く山藤等、暗い山道もよく見ると野の花で賑やかなのだ。
 もう一つの驚きは野いちごの多さだ。幼い頃田舎で育った私はいつも空腹で、野いちごは最高に美味しいおやつだった。その頃食べたのと同じものが花を咲かせ実をつけている。赤い実でも粒の大きさがちがうのがあり、黄色のいちごや蛇いちごといって食べられないのもあった。森の中の道は忘れ去っていた幼い日々を思い出させてくれる。
十分程で、林はなくなり青空が見え頂上に出る。そこが畑のある山小屋だ。

 ここは光をさえぎるものは何もなく、広い視界の中に背振山や九千部山がありゴルフ場の一部も見える。隣で畑を作っている人が、私は太陽の陽射しを買ったのだと言っていた。
 幼い頃一番美味しいと思っていた野いちごを山道から引き抜いて畑に植えてみると大変なことになった。実はあまり赤くならず葉だけがのび、さわると痛い。又根が異常に強く、あちこちに広がり芽を出して、畑をあらしてしまう。可愛い蕗の薹や土筆も同じで、ひ弱い野菜はやられるので、野生のものを畑に植えることは断念した。
せいぜい山道で花や実を見て楽しもう。
 心配することはない。水と太陽がある限り野生の植物は人目につかなくても必ず何処かで生きている。山小屋までの道のりはそれを教えてくれた。


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  喫煙室のグレタ・ガルボさん

 夫婦でよく朝食をとりに行くカフェレストランで、必ず会う女性が一人いる。
彼女はいつも喫煙室の左端に、お一人様用の席で一般室に向かって座っている。部屋のしきりは食事をのせる所までは木製で、その上は天井まで曇りガラスと透明ガラスの格子で作られ、顔はよく見えないが姿から彼女だとすぐわかる。

 他にも常連客はいるが、彼女に限らず言葉を交わしたことは無い。いつの間にか私達は常連客の人達に、感じが似ている歌手や有名人、知人などの名前をつけ今日は来ているとか、暫く見ないとか話したりする。喫煙室の彼女には知人の名前をつけていた。ある日帰りの車の中から、一足先に店を出た彼女が歩いているのが見えた。ジーンズ色の帽子に同系色のチョッキとズボンで足早に歩いている。その後何度かその姿を見かけ確信した。彼女のスポーティな服装からもウオーキングをして朝食を摂りに来ているのだと。
 
 ある時少し高く作られている禁煙室の一番奥に座ると、何気なく見えた喫煙室の彼女が食事の後本を開いて懸命に何かやっている。どうも週刊誌などに載っているクイズやクロスワードをやっているようだ。今までに煙草を吸っている姿や、誰かと話をしているのを見たことが無い。窓際から一番遠い席に座り、食事の時以外はいつも俯いて何かをやっている。それで二つ目の確信をした。食後は脳トレをしているのだと。週に2、3回の不定期便の私達がいつも見るということは、彼女は毎日来ているのだろう。ウオーキングで筋力を鍛えカフェでの朝食後、脳トレをして一日をスタートしているのだ

 ある冬の寒い朝カフェに行くと彼女はすでに来ていて、私達は少し離れた一般室の彼女の正面に座った。暫くすると彼女はすっくと立ち上がり帽子をかぶった。今迄に見たこともない落ち着いた深紅の布製の帽子に同じ色の上着をはおり、それがとても新鮮でおしゃれな感じがした。その時ふと頭にグレタ・ガルボの姿が浮かんだ。以前テレビで、坂東玉三郎が敬愛するグレタ・ガルボの生誕地を訪ねるという番組を見たことがあり印象に残っていたのだ。

 スエーデン出身のハリウッドを代表する最初の大スターで、その美貌と演技力に「ガルボの前にガルボなし、ガルボの後にガルボなし」と言われたほどだった。映画もヒットしたが三十五歳で引退。八十四歳で没するまでの生活はベールに包まれているが、散歩が趣味だったことだけは確からしい。女優時代もマスコミ嫌いで、外出の時は帽子とサングラスで人目を避け、私生活を決して見せなかった。又引退する時の潔さと、その後も数少ない人間関係を最後まで貫き、孤高の美学で伝説の女優となった。

 喫煙室の彼女は、私達のように子供や孫や友人と一緒だったりすることもない。常に一人で、店を出る時店員に「ご馳走様」とだけ言って帰っていく。年齢はかなりいっているようだが、小柄で姿勢がよく、決して足元はふらつかない。長年のウオーキングと脳トレは足元に表れ、それは生きていく姿勢のようにも思えた。私がお一人様になった時あんなに強くなれるだろうか。
 
 大スターでありながら若くして引退した後、公の場には出ることなく孤高に生きたグレタ・ガルボ。深紅の帽子と上着を見たその日から、勝手に彼女の名前を知人からガルボさんに変えた。あっ今日もガルボさん来ている!その姿を見ると何故かほっとする私なのだ。
 
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 猫柳は不死身

 山小屋の畑に猫柳の木を植えたのは平成二十一年だった。娘一家が転勤で福岡から東京へ行くことになり、記念に孫達といっしょに植えた。二〜三月頃、銀白色の花穂が出て、暖かくなると黄色っぽい色になって落ち、葉が出てくる。その生命力に驚かされたのはずっと後になってからだ。
 数年前花穂の美しい時、枝を切って山小屋のトイレに飾った。最初は花瓶に水を入れていたが、水が無くても変わらないのでそのままにしていた。ふと気がつけばかれこれ四年位の月日がたっている。色も変わらず、触ってみてもポロリと落ちることもない。これが最初の驚きだった。

 もう一つの驚きは、昨年剪定した後に新しい枝が出てきてからの事だ。二月の中頃、小さい薄赤い皮のついた蕾が出てきた時、枝を切って水の入った花器にいれ自宅の玄関に飾った。暫くすると皮を破って花穂が出てきた。穂の先に残った皮が帽子のようについている。一つ一つ穂先の皮をとっていくと、出てくる純白の毛の柔らかい美しさに息を呑んだ。
又、細い枝先に二ミリ程の小さい蕾がびっしりついていたので、十センチ程切ってコップにいれていると芽が出てきた。しかも水に浸っている所から、二センチ位の白い根が出てきているではないか! 何と言う生命力だろう。
ただ新しい枝は、水につけていると根が出て花穂が落ちてしまう。

 小さくて可愛らしい形、絹糸のように輝く銀白の色、赤ん坊の産毛のようで、触ると猫の毛のような感触には心癒される。ドライフラワーもいいが、元の色ではない。色の美しい時に切り、ただ飾るだけ。生け方は猫柳だけでも素朴でいいし、他の花と組み合わせると華やかで豪華にもなり、どんな生け方も様になる。自宅にも山小屋にも、あちこちに生けている。昔川辺などによくあり、春の訪れを知らせてくれた木。根が出た枝を植え、育て増やしたくなった。
もしこの花穂が十年もったら、猫柳は不死身だと声をあげて言いたい。

 

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杉山八郎と樋口一葉 
 
 以前友人が、杉山八郎氏の「東京下町たたずみの家々」という本を貸してくれた。色彩の無い精密な描写のペン画は、今も東京に残っている古い木造住宅の絵で説明も書かれている。大都会の中にこんな住宅がまだ残っていて、しかもそこで生活している人々がいることに驚いた。その中に樋口一葉も使った掘抜きの井戸や通った質屋と近所の家々の絵があり、幸い戦災を免れたその場所は、現在文京区本郷四丁目で、機会があったら見てみたいと思っていた。今年四月主人と東京に行く事があり東京駅に着いて、たまたま午後から時間があいたので、急遽一葉ゆかりの地を訪ねる事にした。
東京メトロ丸の内線に乗り後楽園で下車、東京ドームを後にして案内所で道を聞くと徒歩で十五分位の所と言う。大通りのなだらかな坂を登りきった所から住宅街に入った。
暫く歩くと急な下り坂となり右側に何本か細い路地がある。その中の一本に入ると杉山氏の絵そのままに井戸と石の階段、両端に三階建ての古い木造の家がたたずんで、明治時代にタイムスリップしたようだった。
当時のつるべ井戸は、ポンプ式に変わり青く塗られていたが今も使われていて、周りには一昔前の木造住宅があり、洗濯物が干され、家の前には木蓮の花が咲き植木鉢等も見え人々の息使いが感じられた。一葉に逢えた様な気持ちになり思わず井戸に手を触れると、ポンプ使用すべからずの注意書きがあり写真だけ撮る。この井戸のすぐ側に三年近く住んでいたそうだが当時の家はなく、鐙坂と言う坂を下った途中に、貧しい家計を助けるため通ったとされる質屋があった。百年は越している白壁の蔵と格子造りの二階家があり、一葉ゆかりの伊勢屋質店の看板があった。どんな思いでこの坂を往復していたのだろう。

夕方になり、文京シビックセンターの二十三階にあるレストランに入った。店を出るとその階は一周できる展望台になっていて広い窓から東京中が見渡せ、日も暮れ始めた街は、ビルのネオンと揺れ動く車のライトで浮かび上がった。空は一面暗い青紫の雲に覆われたが、下の方に帯状の真っ直ぐな夕陽が何処までも続いている。
沈み行く前の束の間に輝く真っ赤な夕陽を見ていると、最後の短い間に数々の名作を書いた一葉の人生そのものの様に思えてきた。
若くして戸主となり、生活を支えるため小説家を断念、一時期吉原遊郭周辺に転居し商売をした経験で遊郭周辺に生きる人々を知り、明治社会に対する認識を深め大きく飛躍し、執筆活動を再開。肺結核のため、二十四歳の若さで没するわずか一年半あまりの間に、たけくらべ、にごりえ、十三夜等の代表作といわれる名作の数々を生み出し、奇跡の十四カ月とも言われた。
誰もが活き活きと輝いた思春期の子供達を書いた“たけくらべ”以外の殆どの作品は、明治近代のなか、さまざまな場所で沈黙を強いられた女性達の姿を描き出している。
時代背景だけではなく、人間の生まれ持った性や閉塞感は時代を超え今も通じるものがあると思う。文壇でも高く評価されたが、女性が小説を書くことで好奇にさらされていることに気づき、経済的にも報われぬままだった。
端正な顔の表情からは何も掴めないが、借金と生活苦に追われ、女性作家であることに苦悩した彼女が、居並ぶ偉人男性の中、唯一人の女性として五千円札の顔になったことを知らせることはできないものか。
あの日見た帯状の夕陽のように、鮮烈に生きた彼女の人生にエールを送る事は出来ないが、作品を沢山読んで少しでも理解を深めたい。
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 始まりは2πrから

 世の中は人柄の判断をよく血液型や理系文系に分けて決めたりする。勿論科学的根拠は無いが、妙に当たっていたり、変に納得したりもする。私が人は理系の人と文系の人がいると実感したのは、新婚の頃のある経験からであった。

たまたま漬物を漬けようとした時、桶はあるが重し蓋が無いので、夫に作ってくれるよう頼んだ。すると何か計算をしている。ふと見ると2πrの字が見えた。漬物桶は下の方が少し小さくなっているので、中程の円周を計り、πで割って直径を出し、桶の厚みを引いて計算したそうで、ぴったりの重し蓋を作ってくれた。
四十五年も前の事だが私が忘れられないのは、蓋ではなくこの2πrの文字であった。と言うのも私は理数が苦手で、難しい理数の勉強ほど、普通の生活には何の役にも立たないと思っていた。しかし、私にとってπやrのような文字が、身近な生活に使われ役に立っているのは大きな驚きであった。

月日が流れ、夫が定年退職後、趣味で小さな山小屋を建て屋根付のベランダを作った時、今度はノートに沢山の√の文字を見た。屋根を支える柱と柱を補強する「筋交い」という部材を使うが、その長さの計算をしているのだそうだ。又、傾斜の付いた屋根の裏側の部分でも三角関数や相似(そうじ)まで使って計算したらしい。見るのも嫌だったπや√がこんなに身近な生活に役立っているのを再び思い知らされた。全ての始まりは2πrからである。

考えてみれば人間の生活の基盤は理系から出来ている。衣食住の根本は理系だ。どんなに美しい建物でも風雨や地震ですぐ壊れる様では元も子もない。基本は理系で作られ、文系の美しさや心地良さが加わって生活を豊かにする。文学や絵画音楽等どれ程心を豊かにしてくれた事だろう。私も若い頃、本が好きでよく読んだ。沢山の感動とワクワクした楽しさは、私の心の支えとなり人間的成長にも役立ったと思う。文系の有難さである。理系の大切さも分かったが今更パソコン等勉強する気にもなれず、私に似たのか理数が苦手という中一の孫娘に「解らないまま進まないようにね」と忠告するのが関の山である。
以前夫が娘のパソコンを修理した時、娘から「大学教授より役に立つ」と言われ、それ以来事ある毎にその言葉を口にし自慢げであるが、文系の私も出番が無いわけではない。ふと、ショパンの恋人の名前や歴史上の人物等を言うと驚いて話を聞いてくれる。私はこの時とばかり熱弁をふるう。しかし、これこそ実生活には役に立たない事ばかりだけれど。

先日夫婦で大阪に行った。宿泊先は全国的なグループチェーンホテルで、歩いていく途中で分からなくなり、夫は地図を広げて探していたが既に薄暗くなって見え難くなかなか見つからない。ふと見るとビジネスマン風の男性がコロ付きのスーツケースを引いて急ぎ足で歩いている。以前利用した時客層を掴んでいた私は、同じホテルだと直感し、付いて行くと目的のホテルであった。文系はこういう直感も働く。
2πrを見たあの日から生活はさほど変わっていない。理系文系両方得意にこした事はないが、こんなにはっきり分かれている夫婦でもここまで来たのだから、これはこれで良しとしよう。ただし、生まれ変わってどちらかを選ぶとしたら私は理系を、夫には文系を希望する。 

                             
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 さよなら 二つの母校 
 
 終戦の年に生まれた私は二つの小学校へ行った。三年生迄福岡県の山奥で、四年生からは福岡市の中心部にある学校だった。その二つの学校が廃校になった。

遡れば明治5年学制発布により「村に不学の家なし」、全ての国民に教育をと考えられた。

山の剣持小学校は明治9年に設立、南北朝時代に九州の山奥に逃れた南朝側の親王を最後まで守り、剣を持って宮を守るということから剣持という地名が生まれ、六百数十年もその生活は続き学校もできた。この学校から著名な歴史小説家が出たのも頷ける気がする。しかし、過疎により創立121年で平成9年に廃校となった。

都心の大名小学校は明治6年に設立、昭和4年に建てられた鉄筋コンクリート造りの校舎が有名だった。昭和20年の福岡大空襲でも消失を免れ、校舎内の重厚な石造りの手すりのある階段や、板張りの廊下の天井の梁はアーチ型で柱と共に白く、ホテルの様だった。転校した時が戦後のベビーブームで児童数も二千人を越しており、山の生活しか知らなかった私は人数の多さと服装の違い、建物の立派さに圧倒された。戦争の悲惨さや戦後の復興も博多の祭りや文化も見て支えてきた。戦前の首相広田弘毅や多くの芸術家も出している。しかし、ドーナッツ現象や少子化で児童数が激減、今年3月に140年の歴史に幕を下ろし、名前も場所も変わり小中連携校として再出発した。
お別れイベントに参加してみた。在校生と一緒に伝統の両手をついての廊下の雑巾がけや石造りの階段の手すりを滑る姿も見られ、給食や授業の再現も懐かしかった。                         

山では自然を愛する事を、都心では歯磨きの大切さや、毎日漢字百字の宿題で文字の大切さを教えてくれた先生方、わが師の恩である。夜は満開の桜の咲く運動場に大名アリガトウの文字が蝋燭で灯され華やかな別れであった。時代の変化で消えていった二つの母校、名前や校舎は無くなっても、卒業生として学び舎の歴史や思いは心に刻んで忘れまい。        
 
   
 八女郡の山奥の剣持小学校    福岡市中心地の大名小学校
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 昭和20年に生まれて
 
 先日、高校三年の時の同窓会が行なわれ出席した。皆古希を迎え、今までになく盛大だった。丁度戦後七十年目で、新聞やテレビでも大きく報道された。二十年生まれは、極端に児童数が少なかったが、以後ベビーブームが訪れ、団塊の世代となって日本の復興を支えた。ホテルでの同窓会が終わり、仲の良かった友、三人と二次会に行った。

 久しぶりに逢い、話は一段とはずんだが、途中で思いもしなかった事に気づかされる。四人中三人が外地で生まれていた事だ。一人が中国、もう一人は台湾、私が釜山、日本で生まれたのは一人だ。高校時代は勿論、結婚等でブランクはあったものの、それなりの付き合いもあったのに、古希を迎えるまで知らなかった。特に仲の良かった友は、父親がシベリアでの抑留生活があったと漠然と聞いていたが、彼女が中国のハルピンで生まれ、小学校にあがる少し前に帰国したと聞き本当に驚いた。しかし当時の事はほとんど記憶にないと言う。彼女の母親が九十一歳の今も元気で、会う機会があったので話を聞いてみた。

両親は当時の満洲で知り合い結婚、彼女を身籠ったが、日本の終戦を知らされぬまま、ロシア軍が突然侵攻、何とかハルピンまで逃げ延び、父親が軍医だったので日本の陸軍病院に避難、彼女はそこで産声をあげた。二十年九月の事だ。日本人のスタッフも残っていて、婦長さんが取り上げ、看護婦さん達がカーテンを引き裂いておくるみや肌着等も作ってくれたと言う。敗戦の混乱の中、命の誕生は明るい希望を与え、生まれたばかりの赤ん坊は、母親が抱く暇もない程いろんな人達に抱かれ愛されたと言う。しかしその後中国の八路軍に占拠され、医者を必要とした軍は彼女一家を帰国させなかった。捕虜ではあったが待遇は悪くなく親切だったと言う。大勢の中国人の中で育った彼女は、両親より中国語を話し、踊り等も覚え、随分可愛がられたそうだ。帰国は、彼女の祖父が八路軍に嘆願書を出して叶えられたが終戦から六年くらいたっていた。
満洲の陸軍病院で彼女を取り上げた婦長さんは、彼女の結婚式に遠くからお祝いに駆けつけてくれたそうだ。カーテンで作ったおくるみに包まれ、物心つくと中国人に可愛がられ育った友。
無邪気に中国の踊りを踊っている幼い日の彼女の姿が目に浮かんでくる。しかしロシア軍が突然侵攻して来た時、優しく上品な母親の口元から「どうしようもなかった、助けてあげられなかった」と苦しげに言われた言葉も忘れられない。

私は終戦の三日前に釜山で生まれた。敗戦を認めない父を残し、母は十一歳の長女、三歳の次女、生まれたばかりの私を連れ引き揚げた。上の姉はその時の事を覚えていて私によく語った。引き揚げ船に乗る時、階段がありアメリカ兵がたっていた。母は釜等の世帯道具を背負い、姉は生まれたばかりの私をおぶって、三歳の妹の手を引いていた。階段を登ろうとした時、ふいにアメリカ兵が妹を抱き上げ登って行ったので、さらわれたと姉は思ったそうだ。すると上でニコニコしながら手を振って妹は待っていた。それ以来姉は「アメリカ人はいい人だ」と思うようになったと言う。幼い子供を連れ、女ばかりで帰国しているのを見てアメリカ兵は不憫に思ったのだろうか。釜山から引き揚げる時、アメリカ人はいい人だと脳裏に刻みこまれた十一歳の私の姉。帰国後十一年で父は亡くなり、母も今年で三十三回忌を迎えた。父も母も生きる事で精一杯で、多くを語らぬまま別れてしまった。

昭和二十年生まれは、戦前でも戦後でもない。戦争という大きな激動の時代に翻弄され、必死で生き抜いた大勢の人達の中に両親や私達も、子供達もいるのだ。
これからも平和であることを願わずにはいられない。
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 カフェで朝食を
 
 朝食を外で摂る楽しさを知ったのは、40代の頃転勤で海外生活をしてからだ。シンガポールでは、驚く程の安さでホテルの朝食を摂ることができる。メニューは少ないがフルーツドリンクの美味しさとホテルの豪華な雰囲気で、ちょっとリッチな気分になり、家族連れでよく行った。この名残なのか、子供達も巣立ち、義母も他界して定年退職した夫と2人になった頃、時々朝食を外でするようになった。
 低血圧の私は朝に弱い。年中無休の3度の食事作りの中で朝が1番きついのだ。私の気持ちが通じたかのように、6年程前徒歩で10分足らずの所に、朝7時に開店するカフェレストランができ行くようになった。11時からランチメニューとなる。朝のカフェは客もまばらでジャズ系の音楽がながれ、天井には古民家風の黒い梁が見える。店内はかなり広く奥に喫煙室、緑の見える窓際に禁煙室があり、夫々に透明のガラスや摩りガラスで仕切られている。観葉植物や花、アンティックな家具等もおかれ落ち着いた感じだ。ホテルとまではいかなくても、朝の静かな時間ここに座るだけで日常から離れられる。朝食のメニューは和洋いろいろあるが今の私達のメニューは、トースト、サラダ、目玉焼き、ウインナー1個に、有機栽培のコーヒー付で379円という安さだ。又値段は少し高くなるが、コーヒーはキリマンジャロやコロンビア等の種類がそろっていて違いを楽しめる。これだけでも充分満足だったが、思わぬ特典まで付いた。

 早朝の客は少なく、店員さんとすぐ顔馴染みになり、暫く通っているといつの間にかお得意様扱いをしてくれるようになった。中でも始めて店を訪れた時からいる女性店員は、他の店員と違い毎日出勤するので親しさも増した。ここでは店員は料理もするので、客の意見も聞きたかったようだ。ケーキやお菓子の新製品を出す時は試食してくれと持ってきたり、余ったからとフルーツをつけたり、中学生の孫を連れていくと食べ盛りで足りないだろうとパンをサービスしたり、食事の割引券等もくれた。東京で働いている娘が帰って来た時連れて行くと、同世代で話も合ったようだ。ベテランの彼女は、食事のメニューや店のレイアウトを変えることもやっていて、意見を聞かれたこともあり、私達もいつの間にか自分の店のような気になっている。店を出る時は必ず彼女に声をかけるのだが、誰より心のこもった笑顔で見送ってくれるのが嬉しい。
 もう1つの特典は夫がよく話すようになった事だ。現役時代は仕事人間で男は多くを語らずと言っていた夫も、朝食に行くと店を出ない限り向き合って話さざるを得ない。話していると、この歳になってお互いの本音に気づかされたり、思わぬ発見をしたりもする。堅物だった夫が今では芸能ニュースも語るようになり、その変化に1番驚いているのは妻の私だ。

 朝食にくる客は殆ど常連で、ガラス越しに見え隠れするが話したことはない。それで勝手にこちらで似ている人の名前をつける。ある人は某内閣時代の防衛大臣だったり、昔名をはせたフォーク歌手だったり、知り合いの女性だったりするが、今日は来ていないとか最近見かけないとか、その名前で言うのだ。新聞、週刊誌、料理本等もあり情報もこの時ばかりと読んで退屈することはない。
 たかが朝食、されど朝食。価格の安さ、自宅からの距離の近さで週2、3回は行かずにおられない。そして何より彼女の心からの笑顔に元気をもらい、明るく1日をスタートする朝食なのだ。
 
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 代官山の夜はふけて
 
 主人と私は息子の住んでいる埼玉県ふじみ野市から渋谷に出て、代官山で下車。駅近くのビル三階にあるレストランで、娘と待ち合わせしている。寿司とイタリアンの店の奥にバーがあり、そこを予約していた。このバーでは毎週土曜日の夜、ジャズの生演奏があり、そこで歌う彼に会う事になっている。演奏は八時二十分から。

 彼との出会いは三年前の冬、夫婦で長崎のハウステンボスに行った時だった。丁度光の祭典と野外での音楽祭が開かれ、小さな舞台が幾つもあった。クラッシックからジャズ、ラテン等いろいろあったが、ふと立ち寄った舞台の歌声に強く惹かれた。
 ジャズを歌う細身で長身の歌手の声はナットキングコールを思わせ、少し哀愁を帯びている。英語で意味はよくわからないが、どの曲も心に響いた。名前はグレンさん、サックス奏者でもあるアメリカ人。CDを買い、いっしょに写真を撮ると欲しいと言うので、拙い英文を添えメールで送った。すると「わたしのCDかいましたほんとにありがとう こんどあうをたのしみです ひらがなかたかなだいじょうぶ かんじよめないです」と返事がきた。芸能人とは縁のなかった私達にとって、ちょっとした事件だった。CDは世界中に知られている「明日に架ける橋」や「いとしのエリー」等日本の曲もカバーされていた。彼の作曲した曲も入っている。英語だから飽きがこないのか、車の中でほんとによく聴いた。

 その彼から昨年突然メールがきた。四月に名古屋でライブを開くこと、銀座と代官山のバーで週一回ずつ夜に出演していること。
 今年一月末、息子の家に行った時、急に思い立って彼に連絡すると、代官山でやっているという。世田谷に住んでいる娘も行くことになった。生演奏のあるバーに行くのは初めてで少し緊張したが、中は意外に気さくな感じだ。暫くして娘も来た。窓の外には小さな池が作られ、篝火が水面にゆれて美しい。
ピアノの伴奏で彼の歌が始まった。嬉しいことに私達の一番好きな曲だ。歌の後にサックスも吹いた。歌声の素晴らしさに音楽を学んだ娘も驚いている。休憩になって私達の席に来てくれたが、彼は英語で、私達は日本語、会話はチグハグ。
娘が、彼は私達の為に今日の曲目を変更したと言っていると教えてくれた。彼があまりに目を見て話すのでドキドキしたと言う娘。確かに歌の話をした時の嬉しそうな目は忘れられない。気持ちは充分伝わった感じだ。しかしその後、彼が、この店の仕事は今日が最後だと言っていることがわかり、私達は絶句した。何というタイミングだろう! 明後日には福岡に帰る。今日を逃していたら、彼に会うのはいつになるかわからなかった。三人で思わず「ラッキー」と叫んだ。再び歌が始まる。曲の合間の彼の話の中に「キムラファミリー」と言っているのが何度か聞こえた。演奏が終わると、代官山の夜はすっかりふけて、帰る時間が迫っていた。エレベーター迄見送りに来てくれた彼に、この次は銀座でと言って別れた。

 コマーシャルソングも手がけ、活躍の場はあるようだが、今の日本で生き残っていけるのだろうか。何とか終電車に間に合い、複雑な思いでふじみ野に帰り着いたのは次の日になっていた。朝、彼からローマ字で書いた日本語のお礼のメールがきた。
 Glenn.M.Ray 彼の歌声とサックスが、東京の何処かで聴ける日が続くことを願って、翌日帰路についた。

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 二人の手紙

  昨年暮れ、小学校低学年で同級生だった男の子から、私宛に一通の手紙がきた。彼とは同窓会では会ったが交流はなく、平成二十六年四月に発行された「悠遊」二十一号を十月に送っていたのでその事だろうと思った。

私は、小学三年まで九州の山奥の小さな村で育ったが、生涯忘れられない出来事があり、漠然といつか形に残せないかと思っていた。それは一年の時の担任の女の先生が優しくて美しく皆大好きで、二年の担任が男の先生に代わった時の事だ。
 僅か十七名の幼い子供達が一丸となって男の先生を拒否し、全員教室に立て籠り、二年生も元の女の先生に担任してもらう事に成功したのである。山奥という環境なのか、昭和二十八年という時代背景なのか、真相は定かではないが、子供達の思いが通じた何とも微笑ましい思い出だ。

平成二十五年に「企業OBペンクラブ」に入会することができ、この体験を「小さな手が小さな歴史を作った」という題で「悠遊」に載せる事ができた。また、入会して初めて800字文学館に投稿し、過疎となった故郷を書いた「村を守る愛しき人々」も出すことができた。「悠遊」二十一号とエッセイを、幸いにも健在でおられる先生と、連絡のつく同級生に送ったのが十月だった。数日後殆どの人から電話や手紙がきたが、彼からは連絡がなかった。

分厚い手紙の封を開けると、季節の挨拶が流れるような文で書かれ、幼い日の彼と結びつかず戸惑いながら読んでいるうちに、これは奥様が書かれているのだとわかってきた。本が届いた日彼が「立派な本を贈って戴いたのだから電話では失礼、自分で手紙を書く」と言って筆記用具を机に出したまま三ヶ月過ぎてしまい、私が「シビレ」を切らして書いている有様です、としるされていた。
自分も本を読んで感動したこと、故郷を離れた今も、山林を持っている彼と一緒に村をよく訪れているので、村人との交流もあり、エッセイにも共感したこと。酒を飲みながら思い出話をする時の彼は子供にかえった目をして、悪戯坊主だったことがわかるとか、気持ちや様子が細やかに表現されていた。四枚にもなった手紙の終わりの方に「おしゃべりするのは簡単だが文にするのは難しくやっとの思いで書きました」とあったが、美しい文字と文章は「ペンクラブ」への入会をお奨めしたいくらいである。最後に二人の連名が書かれ奥様の名前の下に(代筆)と書かれていた。傍にいた主人も「いい奥さんだなあ」と感心しきっていた。

そして最後の一枚が彼の直筆の手紙だった。四角い字でお礼の言葉と近況が書かれ、短いけれど誠実さが伝わってきた。同窓会の時、しみじみ「俺の人生は幸運だった」と言っていた彼。この奥様との出会いが最高の幸運だったのだと二人の手紙が何より証明している。幸運はただ降ってくる訳ではなく、呼び寄せる力もいる。腕白だったが優しい印象があった彼。気持ちはあるが、書けない彼に「シビレ」を切らして、四枚も書かれた奥様の手紙と、彼の一枚の手紙は、あの幼い日の記憶のように微笑ましく、夫婦の愛が感じられた手紙でもあった。

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 企業OBペンクラブ 副会長の 山小屋訪問記
 企業OBペンクラブの副会長の大平さんが、九州に引っ越して来られたので、山小屋で懇談しました。訪問を大変楽しまれた様で、早速その様子を会に投稿されましたので、ご紹介します。


木村家手作り山小屋訪問記

 こんなにメチャ面白くステキな山小屋を見たことがありません。『悠遊』の木村さんの書かれた『手作り山小屋奮闘記』を読んでこの「山小屋」を一目見てみたいと皆さん思われたことでしょう。その「手作り山小屋」へ木村ご夫妻のお招きを受けて行って参りましたのでご報告いたします。
 
 博多駅から<b>新幹線特急券100円</b>で9分、終点の博多南駅で降ります。この不思議な駅を皆さんご存知でしょうか? 木村さんご夫妻の出迎えを受けて車で約5分走ると、もう森の中それも深山幽谷かと見紛う深い森が10分ほど続きます。突然明るくなって視界が開けると遥かに霞んだ山々が浮かぶ絶景の風景画が現れました。小高い山の頂上を切り開いた場所に家が三軒立っていて、その一軒が木村さんの「山小屋」です。とはいってももはや立派な「家」でしたが。<br>
 お二人は『悠遊』の表題を「成り行き山小屋手作り記」のような表現も考えたと言われるように、まさしく「成り行き」に次ぐ「成り行き」で思いもかけずに今の家が出来上がってしまったのですと説明して下さいました。菜園作りをするなら農機具入れる小屋を作ろう、それなら雨露しのげる人も泊まれる小屋にしよう、そしてどんどん付け足していくうちに今の立派な「山小屋」になってしまったのだそうです。
 
 まず、フィンランド製ログハウスを2軒継ぎ足したという発想に驚かされました。ところが、中に入るとお二人のアイデアの傑作が次ぎ次ぎに現れて驚きの連続です。まず普通の家では見たこともないたいへん大きな窓があって素晴らしい展望を居ながらにして見ることができます。この大きな窓は<b>なんと</b>ガラスを入れた縦用のサッシを横にはめ込んだものでした。この思いつきはホームランです。次にリヴィングには掘炬燵が作ってあり、足許のホカホカはホットカーペットというのでそれだけで感心していると、横の床をめくってみて下さいとのこと。めくると<b>なんと</b>また堀炬燵が現れました。堀炬燵がダブルになっていたのです。お孫さんたちや大勢の皆さんが来られたときのために作られたとか。寝室も見せて頂きました。入ると平面の床のその先の床が2、30cm上がっています。通常はその上に布団を敷くのですが、お孫さんたちがやってくると、これが<b>なんと</b>ステージに早変わり、ここでお孫さんたちが踊ったりするのを手前の床に座っておじいちゃんおばあちゃんはご覧になるのだそうです。ステージと観客席兼用の寝室なんて見たこともありません。なんとなんとの驚きの連続でした。その傑作のいずれもがなんだかほのぼのしていて、アイデアもきっとお二人のお人柄の産物なのではないでしょうか。
 これらの傑作も全部「成り行き」の産物でしかありませんとお二人は笑っておられます。もう一つ伺った「成り行き」の産物は、お風呂でした。最初お風呂は隣の家だけが見える場所だったが、近くで畑を作っている人が「ここでお風呂に入るなら、星空を見ながらでなくっちゃ」と言われ、そうか!ということで急遽建て増しして今のところに付け替えたとか。「星を見たい」というだけでお風呂を移動されていますが、その労力たるやたいへんなものだったと拝察されます。これにも大いに驚きました。実はまだまだあるのですが残念ながら書き切れません。<br>
 かくして単なる農機具小屋から山小屋へと発想は大きく変化し、その山小屋も13年間の間にお二人の智慧とアイデアで何度も変貌を遂げられたのでした。お二人の「成り行き」は、常に現在に留まることなく前向きに進まれています。これは簡単なようで常人の到底及ぶところではありません。すっかり脱帽いたしました。その上ご馳走になり菜園で採れた野菜までたくさんお土産に頂いて帰途につきました。帰りの新幹線と電車の中でも傑作の数々が頭に思い浮かんできました。木村さんご夫妻どうも有難うございました。

                                                    大平 忠 記

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 ふれあった異国の人達

 今年、私は古希を迎える。八月生まれだが戦後派ではない。ここまで何とか夫婦、子供達と生きて来られたことに感謝である。振り返ると想定外の多い人生だった。
その中でも外国の人達とふれあえたのは、嬉しい想定外だった。九州の山奥で育ち、内気で社交的でもなかったので、自ら求めた訳でもなく、どれも夫の仕事や趣味の関係での出会いであった。

最初のきっかけは、三十年ほど前、夫の海外転勤でマレーシアに住んだことから始まった。そのときインド人教師夫妻に英語を教えてもらい、家族同士で交流するようになった。家に招かれ、初めて食べたインドの家庭料理やお菓子は、日本で食べたことの無い味で、沢山の香辛料が使われていたので、その種類や料理方法等も教えてもらった。
家族は長老の父親を軸に、養子の男の子や障害のある人もいたが、いつも明るく全員で歓迎してくれた。何気ない会話で盛り上がり、こんなに顔立ちの違う異国の人達と笑い合うときが来るとは思ってもみなかった。
十年程前、息子夫婦とこの一家を訪ねたことがある。二十年程のブランクはあったが、当時と変わらぬ手作りのお菓子で歓迎してくれ、庭には愛用している日本車があり、再び温かい思い出ができた。

次の出会いは、夫が現役の頃、日本に留学している学生達と交流するボランティア活動に参加していたときのことである。その時知り合った中国人の女子大生が、定年退職したばかりの夫の勤務先に就職したことが偶然分かり、交流が始まった。
夫は定年後の夢だった畑作りを小高い山の上で始め、傍に小さな山小屋を建てたが、そこを彼女も気に入り、よく来るようになった。畑には彼女専用の畝も作り、野菜の収穫を共に喜び合った。中国から両親もみえ、山小屋で沢山の水餃子を作ってくれたことも思い出深い。
昨年、日本人男性と結ばれ、只今育児奮闘中である。一段落すると企業に戻り、中国と日本の架け橋となって再び活躍するだろう。流暢な日本語を話す彼女は感性も似ていて、いつも外国人であることを忘れてしまう。

次の二つの出会いも夫の在勤中で、仕事関係で知り合った人達だ。同じ日系企業に勤めるカナダ人で、日本に出張して来たとき、夫が休日に観光案内をしたことで交流が始まった。旅行中ビデオを撮り、編集して、お土産にしたことが嬉しかったらしく、その後も手紙を出し合った。彼は誰もが認めるジェントルマンで品格があった。
夫の退職記念にカナダ旅行をしたとき、勤務後に二時間ほど車を飛ばして、夫婦でホテル迄会いに来てくれた。 
山小屋の近くの畦道に咲く彼岸花の写真を二人に見せると、美しいと感動していた。六十五才が定年の彼は、その後湖の近くに別荘を持ち、ウッドデッキは彼の手作りで、木工の趣味と自然を愛する気持ちは夫と変わらなかった。

もう一つの忘れられない出会いは、企業研修でイギリス人学生を会社で受け入れたことがあり、担当した夫は交流を深めようと、彼を家に招待した。そのとき、彼は自ら祖母との面会を求め、畳の部屋できちんと正座して挨拶した。カボチャのスープを出すと、とても喜んでくれた。
研修を終え帰国した後、お礼の手紙も来て、彼の礼儀正しさと真摯な態度には胸を打たれた。その彼は、今、日本企業で働いていると風の便りで知った。心から応援したい。

幸い、平和な時代に生きることができ、何かの縁で出会った人達は、アジアの人も欧米の人も皆温かかった。想定外の異国の人達とのふれあいは、どれも心に残り、大切にしたいことばかりだ。

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イギリス青年の正座

 今から十七年程前、イギリスのカーディフ大学と北九州大学が、十五人位の大学生を三ケ月間交換留学させていた。互いの文化や経済を学ばせ、1ケ月間は企業に預け、仕事を勉強するという企画であった。夫の勤務先にも、イギリス人学生を一人企業研修で受け入れることになり、夫が世話をする事になった。
仕事そのものは各部門の専門に任せるが、日本企業の在り方や産業経済等マンツーマンで説明したとの事だった。夫は、日本を理解してもらうには普通の家庭も見せたいと思い、我が家に来てもらうことになった。私もマレーシアへの転勤でアジア人と接した事はあったが、イギリス人は初めてである。

多少緊張して迎えたその日、玄関で夫の横に立ったブルースと言う名前の青年は、穏やかな微笑みを浮かべ「コンニチワ」と挨拶した。金髪で小柄な好青年である。そして家族構成を聞いていたのか、祖母に挨拶したいと言う。和室の祖母の部屋に通すと、きちんと正座して、片言の日本語でにこやかに挨拶した。八十五才の祖母も膝を突き合わせ、思わず笑顔になり「まあまあ」と嬉しそうに言っていた。居間に移り、彼が手土産まで持ってきた事に驚きながら、テーブルで普段の昼食を出した。カボチャのスープが口に合ったのか、グーと言って親指を出し、台所に立つ私ににっこり微笑んだ。和やかな時間が過ぎ、日本人のガールフレンドと図書館で待ち合わせしていると言って帰って行った。控えめで礼儀正しい印象を残して。言葉は充分ではなかったが、日本に馴染もうとする真摯な姿勢や誠実さは伝わってきた。風の便りでは今、日本企業で働いているとの事、あの時のガールフレンドと温かい家庭を築いたのだろうか。

先日のスコットランド独立か否かの選挙のニュースや、NHKの朝ドラ「マッサン」等でイギリスの事情も少しは身近に感じるようになった。八十九才で他界した祖母の部屋に入ると、きちんと正座して挨拶しているイギリス青年の姿がふと甦る。

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手作り山小屋奮闘記
 
 標高四百三十メートルの小高い山の上に小さな山小屋が完成したのは、平成十五年の四月だった。夫が定年を迎えて一年後の事である。定年の二年程前から第二の人生は農業をしたいと思い、畑用の土地を捜し景色のよさで四十坪購入した。野菜作りは素人なので夫は農業学校に通い始めた。その時知り合った人が脱サラをし、後継者がいなくなった果樹園三千坪を買って畑にし、そこに山小屋を自分で作り住んでいた。それを見た夫は、休憩や道具入れとしての山小屋を作りたくなった。

定年になっていろんなモデルの山小屋を見て廻り、組立式のフィンランド製ログハウスで作る事にした。壁は丸太ではなく五センチ厚の平板で軽く安価で、窓やドア・屋根も付いている。基礎だけはプロに頼み、夫は会社の人に声をかけ、棟上げの日は数人、朝早くから手伝いに来てもらった。皆サラリーマンで素人である。先ずは壁になる板の切込み部を合わせて積み上げ、屋根迄の高さにする。最初は時間がかかったが、午後になると要領が良くなり作業が早くなった。声をかけ合い、汗を流しながら学習能力を発揮、外壁は一日で出来上がり、二日目には屋根も付いた。あの日の達成感を、手伝いに来た一人が「あんな楽しい日はなかった。その日の内に成果が出て」とサラリーマン生活では味わえない事だと言っていた。これで残った材料を中に入れて雨風を凌げる。

後は二人だけで、自宅から車で片道四十分の道を弁当持参で通い、野菜作りをしながら仕上げていった。苦労したのが、山の上は気温が低いので屋根と床に断熱材を入れる事になり、予定には無かった二重構造にした事だった。屋根と床の材料と断熱材を新しく買い、思考錯誤し、作るのに二倍の労力と時間がかかったが、お陰で夏涼しく冬は暖かい。又、他にも解らない事や難しい事が出てきて、途中ほんとに出来上がるのか不安が何度もよぎった。しかし壁を切りぬき窓をつけると、外の木々が美しく見え、力が湧き出て、新しいアイデアで大きなサッシの窓を付けたり、風呂を星の見える場所に変えたり、すったもんだしながらも、俄然楽しくなってきた。壁の塗装は私の仕事だった。
外側が出来ると中は掘り炬燵、食器棚、ベッド、そしてベランダ迄作った。又、近くの山道を車で通る人達が手作りしているのを見て興味が沸いたのか立ち寄った。仕事で断熱材を使っているのでと持ってきてくれた人、土台柱の切込み穴開けを見かねて手伝ってくれた大工さん、畑があまりにも痩せているのでと馬糞を持って来てくれた人、畑用の藁束と椎茸栽培の原木を持って来てくれた幼友達、手作りしている事を知って手伝いに来た友人達等いろんな人達とふれあいながら、十二坪の山小屋は何とか出来上がった。

完成後、手伝いに来た人達を呼び、宴をして壁に名前を書いてもらった。ほんとに手伝った人、宴だけに参加した人は別にして、皆大笑いした。それから暫くして、某テレビ局の「水と緑の物語」という番組で福岡の名水をエコカーで尋ねる番組があり、丁度山小屋近くで充電切れし電気を求めて立ち寄り、成り行きで一緒に近くにある湧水まで案内した。汲んできた水でコーヒーを出すと、それらが全部撮影されていた。もともと孫達に、有機肥料で作った無農薬野菜を安心して食べさせたい思いから始まった第二の人生である。番組の趣旨に合い、完成を待っていたようなタイミングと、私達が居あわせた偶然は奇跡的に思える。殆どカット無しで、ぶっつけ本番のままテレビ放映され、いろんな人から電話がかかってきた。

あれから十二年ほど経ったが、台風の直撃にもめげず健在だ。その後六十坪買い増しし、週に二度程畑の手入れの為通い、時々泊っている。建ててからも沢山の人達が来た。畑仕事の為に四苦八苦して建てた山小屋は、思いがけず多くの人達とのふれあいを呼び、想定外の楽しさを運んでくれた。


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 根っこは皆同じ(笑いの中で)
 
 ありふれた日常の中での他愛もない冗談に、私達夫婦は思わず笑いころげた。相手の夫婦も、白い歯を見せ笑っている。ふと私は、その相手が日本人ではない事に気づき、不思議なものを感じた。

 30年程前、主人の転勤でマレーシアに暫く住んでいた。 
週に1度、インド人教師夫妻に、家で英語を教えてもらっていた。子供2人も一緒に習い、レッスンの後はいつも談笑していたが、その時に感じた事だ。
 
 マレーシアに来て3年程過ぎると、夫妻とは家族同士の付き合いもでき、親しくなっていた。教師夫妻は6人家族だったが、私達が家に招待された時、いつも家族全員で歓迎してくれた。初めて知ったインド人の家庭料理や手作りのお菓子は今まで食べた事のない美味しさで、異国の食文化を知らされ、香辛料等も教えてもらった。
   息子夫婦の剛也夫妻(左端と右から2人目)と、マレーシアにいるインド人教師(左より3・4人目)宅を訪問 (2005年)
 教師夫妻は子供に恵まれず、養子をもらい、夫の父親は大切にされ、晩酌を楽しみ、障害のある妹2人は嫁がずに家事を引き受け、皆で寄り添い協力しあって明るく生きていた。それは昔どこにでもあった日本の大家族と変わらない。国や言葉、肌の色や宗教、食べ物や生活習慣は違っていても、家庭の中に入ると皆愛し合い協力し合って生きている。面白い事には同じ様に笑い、優しい言葉には嬉しく思うのは、どこの国でも同じではなかろうか。花や野菜、草や木も、いろんな種類はあるが、根っ子はさほど変わらない様に。

 初めて踏んだ外地マレーシアでの生活は驚きの連続だった。多民族国家で、マレー人、中国人、インド人は宗教も服装も食べ物も違う。国の中の十数個の州に一人ずつサルタンと呼ばれる国王がいて君臨していた。また、当時生鮮食品の魚や肉、野菜等は市場で売られていたが、生きた鶏が竹篭の中で鳴き、その横には丸裸の姿でぶら下がっている。魚売り場では、飛び交うかけ声の中、大きな丸太を輪切りにした上で、熱帯の魚が四角い中華包丁で解体され、地面の汚れを流すバケツの水はあたりに飛び散り、家に帰ると洋服の着替えとシャワーは欠かせなかった。
しかし、豊富で新鮮な海鮮の中華料理には、豪快なカニ料理など日本にない絶品の美味しさがあり、激辛のマレー料理やインド料理も慣れると美味しさも分かってくる。現地の人しか行かない屋台や小さな店も、この国ならでの味があった。衛生面で驚く事もあったが熱を通す事で理に適っていた。多民族の食物は、常夏の国に合った様にそれぞれ作られている。3年も過ぎると現地に馴染み、ふと気がつくと外国人である事を忘れ笑い合っていた。
 
 十年程前、息子夫婦とこのインド人教師一家を訪ねた。父親は他界していたが他は皆元気で、養子の男の子は立派な社会人になっていた。当時と同じ様に手作りのお菓子で歓迎してくれ、現役を退き家庭菜園を楽しみながら「今も日本車を愛用しているよ」と夫妻は微笑んだ。狭い世界しか知らなかった私にとって、あの不思議な体験は貴重であったとつくづく思うのである。

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 故障車と小枝(シンガポールの思い出)
 
私達夫婦は成人した子供達に誘われ、2005年と2013年の2度シンガポールへ行った。ツアーでなく手作り思い出旅行である。我家族は30年程前転勤で、シンガポールに隣接したマレーシアのジョホールバルに暫く住んでいた。子供達は学校がシンガポールだったので、この地を故郷の様に感じ、社会人になって訪れたくなったらしい。2005年の時以上に2013年の旅はその発展ぶりに驚かされた。舟形のプールを乗せたマリーナベイホテルを始め高層ビルが乱立し、広い埋立地に作られた公園には数々のレジャー用の乗物、斬新なデザインの博物館や植物園が見事で、シンガポールの象徴のマーライオンも霞む程だった。交通機関も地下鉄が縦横無尽に走り、カードさえ買えば何処へでも行ける。市街地に入ると地上は車中心で人は地下街を歩く様になっていた。淡路島程の国土は考え尽くされた設計で出来ていたが、以前と変わらないのは街中にある美しい並木だった。

私はこの並木に忘れられない思い出がある。マレーシアには民族衣装に使われるバティックという伝統的な染物があるが、当時友人と二人でシンガポール迄習いに行っていた。布に絵を描き、蝋でなぞった後に色を付けて染め上げる。楽しくなった頃、友人が帰国となった。一人で車を運転し国境を越えて行く事に不安はあったが、諦めきれず通っていた時の事だ。市内で突然車が動かなくなった。何とか車を道の端に寄せ、外に立って途方にくれていると、通りがかりの男性が車を停めてくれた。事情を聞くと即座に傍の並木をポキッと折ってトランクに挟んだ。シンガポールでは車が故障した時こうして知らせるのだと言う。確かに常夏の国の並木は年中鮮やかな緑で遠くからもよく見え、木も至る所にある。それから修理工場迄連れて行ってくれ、車は修理でき、その日の内にマレーシア迄帰る事が出来た。シンガポールから帰れなくなったかもしれない事を思うと、見知らぬ人の親切はほんとに有難かった。バティックはその後帰国迄の1年程習い続け、イミグレーションでは日本人が画いている事で目を引いたのか検査官から「記念に欲しい」と冗談交じりに言われた。また、マレーシアで主人と同じ職場で働いていた現地の人が、昨年家族連れで日本旅行に来て我が家にも立ち寄った時、バティックの絵を見乍ら話も弾んだ。

今度の旅行では電車内で席を譲ってくれたり、乗り換えで戸惑っている私達を察して乗り方を教えてくれ、人々は今も親切であった。子供達は通っていた日本人学校を訪れ、今働いている先生とも話ができ、懐かしさで一杯だった。唯、高層マンションの窓から突き出した物干し竿の数知れぬ洗濯物は見られなくなり、鬱蒼とした並木や道路沿いの観葉植物の傍には虫一匹いない。地下鉄には駅員はおらず、時間が来れば扉は閉まり、運転手のいない電車は自動的に走り出す。水陸両用のバスに乗り、その発展に圧倒されながらも、生活の臭いが感じられなくなっていた。
車が故障したら今も小枝を挟む習慣は続いているのだろうか。あの日の親切に感謝しつつ、この習慣は続いて欲しいと思った旅でもあった。

子供が日本人学校 小2と中1 の頃 
 
 28年後の家族旅行 

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 国境を越えて通学した日々
 
今から31年前、42才の夫はマレーシア勤務を命じられ、家族より半年早く出発した。3人の子供の内、長女は現地に高校が無いので、やむなく祖母に預け、私は小5の長男と小2の次女を連れ、38歳で初めて外国の土を踏んだ。赴任先のジョホールバルはマレーシアの最南端で、シンガポールと隣接し、両国はジョホール水道が通っている橋で繋がり、そこが国境となっている。

先ずはシンガポールチャンギ空港に着いたが、外に出た瞬間大きな温室に入った様なムウッとした熱気に包まれ、これが赤道直下なのかと感じた。それから1時間程で国境を越え現地に着いた。ここでの生活で大変だったのは、日本人学校が無く、シンガポール迄国境を越えて行かなければならない事だった。ジョホールに住んでいる日本人は協力し合ってスクールバスを雇い、子供達は毎日パスポートを持って通学した。
当時のシンガポールに住んでいる日本人は約2万人、日系企業は840社、日本人学校の生徒数は小中合計で2千人を越し、世界の日本人学校の中で最大だった。ジョホールから通う生徒は30名程度だったが、パスポートを持っての通学は世界でも珍しかった。子供達は命の次に大切なのはパスポートだと言い聞かされ、親達も学校から帰ると何より先にそれを確認した。

ある日学校から帰った息子が「無い」と言うので青くなった。必死で捜しても見つからず焦り始めた時、違う地区の親から息子のパスポートを預かっていると電話があった。スクールバスの中で中国人の運転手が見つけ、日本人の親に渡せば連絡してくれると思ったらしい。ほんとに助かり、家族中で胸をなで下ろした。
また、音楽好きの次女は4年生になってブラスバンド部に入ったものの、練習で遅くなるとスクールバスに乗れない。その時はシンガポールでは市営バスに乗り、マレーシアに入ってから公衆電話で連絡し、私が車で迎えに行く事にしていた。待っていたその日、なかなか電話がかかって来ない。日も暮れ始め気が気でなくなった時、しょんぼり1人で帰ってきた。話を聞くと、近くまでマレー人の青年がバイクに乗せてくれたと言う。イミグレーションから家まで海岸添いの1本道で、車で15分、子供だと徒歩で1時間以上はかかる。持っている筈のお金が無い事に気づき歩いて帰ろうとしたが、その遠さに愕然とし、日も落ちて、涙が出てきたという。その時、通りがかった青年が娘の様子に気づき声をかけ、バイクに乗せてくれたとの事だった。携帯電話等無かった時代、娘の心細さを思うと、幾重にも迎えの方法を考えておくべきだった。バイクに乗せてくれた青年がいい人であった事がどれ程幸運であったか、後になればなる程身につまされる。

 当時マレーシアではマハティール首相のルックイースト政策もあって日本人に対して好意的で、街で会う見知らぬ人も視線が合うとよく微笑んでくれた。バイクに乗せてもらった時、疑う事もなく「歩いて帰らなくてよくなり唯々嬉しかった」という娘、親の私もほんとに呑気だった。その後それぞれの国の発展は目覚ましく生活は豊かになったが、どこか生き辛くなった今、複雑な気もする。マレー人、中国人、インド人が上手に暮らしている国で受けた親切のお蔭で、何とか無事に3年半程の海外生活を終える事ができた。温かい思い出を作ってくれた名も知らぬ現地の人達に心から感謝したい。


下は、情報誌「世界画報」が当時たまたま取材に来て、国境を越えて通学と掲載された息子(右端)と次女(左端)(1985年)

                          
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 小さな手が小さな歴史を作った

以前NHKで「その時歴史は動いた」という番組があったが、歴史上の人物や事件でなくても、人の一生には各々歴史的な出来事が誰にでもあると思う。私の中にある、忘れ難く何とも微笑ましい出来事を紹介したい。
 それは私が小学校一年生から二年生に進級する時のことで、今から六十年以上も前の出来事である。

私が通っていた小学校は大変な山奥にあり、全校生徒百三十名程度で、終戦の年生まれの私のクラスは十七名、一クラスである。一年生の時の担任の先生は女性で、とても優しく若く美しく、淡いピンクの口紅が色白の肌をより引き立たせ、山奥で戦後の貧しい生活の中で育っていた私達は、その姿を見るだけでも嬉しかった。
課外授業等なかった時代だが、ある春の晴れた日に、先生は突然算数の授業だと言って皆をれんげ畑に連れて行かれた。れんげの花で数の勉強を教えられる予定の様だったが、皆勉強の事などすっかり忘れて、花束や首飾りを作り、先生を囲んで駆け回った。ピンクの絨毯の様にびっしり咲いたれんげの花、済みきった青空、暖かい春の陽ざし。カラー写真等なかったけれど、皆の記憶の中に美しく鮮明に残っている。予想もしなかった楽しい一日は生涯忘れられない日となり、いつも同窓会での話題は、れんげ畑で始まりれんげ畑で終わる。ただし、後で先生は校長先生から大目玉をくらい、畑の持ち主からは、れんげは肥料だから大切にする様注意を受けられたそうだ。

又、入学後どうしても学校に馴染めない女の子がいて、五年生の姉の手を一時も離さない。無理に離そうとすると泣き叫ぶ。結局、暫くその子の隣で姉も一年生の授業を受けていた。小さな一年生の隣に大きな姉が並んで座っている姿は、今思い出しても微笑ましい。
 こうした事もあり、わがクラス全員が熱烈な先生の大ファンだった。しかし、二年生に進級する少し前に、担任が男の先生に替わることがわかり、クラスは蜂の巣を突いた様な騒ぎとなった。だが皆、どうしていいか分からない。せめてもう一年担任して欲しいと切実に願いながら、ついに新しい男の先生を迎える日が来た。
 小さな歴史が動いたのは、正にその時である。

 先生が教室の入口の戸を開けて入ろうとされるその時、クラス全員が一斉に入口に集まり、小さな手で戸が開かない様にしたのだ! 誰が誘った訳でもなく、どんな事があっても先生を教室に入れてはいけないと、気がついたら皆で必死に戸口を押さえていた。十七名の小さな手の思いは完全に一つになり、戸は開くことはなかった。ガラス越しに、男の先生の驚き困惑しきった様な顔が見えた。
 どれ位の時間がたったのだろうか、暫くして先生は引き返された。この無鉄砲な幼い子供たちの行動は、良し悪しは別として、ほんとに一途で心は一つになっていた。この一途な気持ちが伝わったのか、二年生も元の女の先生に受け持ってもらう事になった。昭和二十八年の春、小さな村の小さな子供達が作った小さな歴史である。

「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」の歌の通り、山や川は今も少しも変わっていない。しかし、小学校は平成九年に廃校となり、同窓会が行われていた講堂も、平成二十五年には取り壊される事が決まった。村人も随分少なくなり過疎となっている。唯、この地から出られた歴史小説家安部龍太郎氏が直木賞を受賞された事もあり、この地の歴史的な事実が色々明らかになってきた。
 この地は南北朝時代の後醍醐天皇の孫の良成親王を最後まで守った武将達の居た地で、六百年間変わらずその子孫が残っているのは、全国的にも珍しいとの事である。廃校になった小学校のすぐ側に、良成親王を守った側近中の側近、橋本右京定原という武将の墓が、今も村人により大切に守られている。
 わずか十七名の子供達が動かした小さな歴史を、この武将は微笑みながら応援していてくれたのかもしれない。

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 村を守る愛しき人々

 私は昭和二十年釜山に生まれ、戦後の苦しい時代を九才まで福岡県の山奥の小さな村で過ごした。黒木瞳さんや五木寛之氏が出た黒木から幾山も越えて行く。ここが故郷である。

 ある日故郷が山奥という友人と、どちらがより山奥なのか見に行くことになった。福岡市から車で四時間、我故郷に到着。美しい山や川は昔と変わらないが、昨年の豪雨で川の補修が行われていた。我家は無いが、川を挟んだ山側の三軒の家は昔のままの様に見える。水田も少しあり、男性が一人働いていた。
 家に近づくと畑で働いている婦人が二人。思いきって声をかけてみた。ずっと昔すぐ下に住んでいた者だが懐かしくなり訪ねた事、昭和二十八年の北九州大水害の時、ここの三軒の家の方が避難の手助けをしてくれ、家にも泊めて戴いた事等を話した。
 すると年配の婦人が私を知っていると言われる。泊めて戴いた家には私と年の違う子が二人いてよく一緒に遊んだが、その子達のお母さんだった。私は三姉妹の末っ子だが、話をしていると名前を思い出され、上から「みち子さん、妙子さん、敏美さん」と言われた時は言葉が出ない程驚き感動した。およそ六十年程会っていない! 御年九十三才! 予告なしの突然の訪問なのに。

 思えば母が急病になった時もお世話になっている。振り返れば色んな人に助けられて生きて来た。遅くなったが、有難うございましたと言えて良かった。今も元気に息子さんご夫婦と畑仕事をしておられる姿は眩く見えた。隣の二軒は以前に村を離れられたが、一軒の方は直木賞作家安部龍太郎氏の生家である。同氏が受賞後の講演で「山奥で育った事が私の原点である」と言われた。今同じ場所で同じ思いで私もここに立っている。

 水田で働いている息子さんに昔のお礼を言うと、手入れの手を休め「泊まっていきなさいよう」と手を振って何度も言って下さった。その声が深い緑の谷間にこだまし、今も耳に残る。暖かい余韻を感じながら郷里を後にした。

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  文章を書きたくなった
 
企業OBペンクラブ」への加入 と古い日記

 私にとって心の転機が来たのは5年前の63才の時、家の整理をしていて古い日記が見つかってからである。中学1年から高校、就職して2年間まで書いていた。

 私は終戦の年に生まれ小学3年迄大変な山奥で育ち、4年生で福岡市の中心地に転校しカルチャーショックを受け、5年生の時父親が交通事故死。この二重のショックに11才の私は立ち直れないまま時が過ぎた。友達もできず、苦労している母には何も言えず、その寂しさが日記を書かせたのだろう。

 読んでいると数々の発見があった。手を差し伸べてくれた人もいたのに、その時は気づかなかった。
今こうして居られるのは多くの人達に支えられてきた事を日記は教えてくれ、辛い時の思い出も少しずつ温かくなっていく。

 今は亡き人、会えない人も沢山いる。感謝の気持ちを何かで表したいと思うと文章を書きたくなった。主人に話すと「企業OBペンクラブ」をネットで探し申し込んでくれた。私は福岡在住だが息子や娘が関東にいるので東京に出る事もある。その機会に800字文学館にも出席させて戴いた。当クラブとの出会いは私にとって夢の様である。

今後共宜しくお願い致します。  木村 敏美
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