母さんのページ

カフェで朝食を 代官山の夜はふけて 二人の手紙 副会長の山小屋訪問記 ふれあった異国の人達

 イギリス青年の正座  手作り山小屋奮闘記  根っこは皆同じ(笑いの中で) 故障車と小枝(シンガポール編) 国境を越えて通学した日々

 小さな手が小さな歴史を 村を守る愛しき人々 文章を書きたくなった



 カフェで朝食を
 
 朝食を外で摂る楽しさを知ったのは、40代の頃転勤で海外生活をしてからだ。シンガポールでは、驚く程の安さでホテルの朝食を摂ることができる。メニューは少ないがフルーツドリンクの美味しさとホテルの豪華な雰囲気で、ちょっとリッチな気分になり、家族連れでよく行った。この名残なのか、子供達も巣立ち、義母も他界して定年退職した夫と2人になった頃、時々朝食を外でするようになった。
 低血圧の私は朝に弱い。年中無休の3度の食事作りの中で朝が1番きついのだ。私の気持ちが通じたかのように、6年程前徒歩で10分足らずの所に、朝7時に開店するカフェレストランができ行くようになった。11時からランチメニューとなる。朝のカフェは客もまばらでジャズ系の音楽がながれ、天井には古民家風の黒い梁が見える。店内はかなり広く奥に喫煙室、緑の見える窓際に禁煙室があり、夫々に透明のガラスや摩りガラスで仕切られている。観葉植物や花、アンティックな家具等もおかれ落ち着いた感じだ。ホテルとまではいかなくても、朝の静かな時間ここに座るだけで日常から離れられる。朝食のメニューは和洋いろいろあるが今の私達のメニューは、トースト、サラダ、目玉焼き、ウインナー1個に、有機栽培のコーヒー付で379円という安さだ。又値段は少し高くなるが、コーヒーはキリマンジャロやコロンビア等の種類がそろっていて違いを楽しめる。これだけでも充分満足だったが、思わぬ特典まで付いた。

 早朝の客は少なく、店員さんとすぐ顔馴染みになり、暫く通っているといつの間にかお得意様扱いをしてくれるようになった。中でも始めて店を訪れた時からいる女性店員は、他の店員と違い毎日出勤するので親しさも増した。ここでは店員は料理もするので、客の意見も聞きたかったようだ。ケーキやお菓子の新製品を出す時は試食してくれと持ってきたり、余ったからとフルーツをつけたり、中学生の孫を連れていくと食べ盛りで足りないだろうとパンをサービスしたり、食事の割引券等もくれた。東京で働いている娘が帰って来た時連れて行くと、同世代で話も合ったようだ。ベテランの彼女は、食事のメニューや店のレイアウトを変えることもやっていて、意見を聞かれたこともあり、私達もいつの間にか自分の店のような気になっている。店を出る時は必ず彼女に声をかけるのだが、誰より心のこもった笑顔で見送ってくれるのが嬉しい。
 もう1つの特典は夫がよく話すようになった事だ。現役時代は仕事人間で男は多くを語らずと言っていた夫も、朝食に行くと店を出ない限り向き合って話さざるを得ない。話していると、この歳になってお互いの本音に気づかされたり、思わぬ発見をしたりもする。堅物だった夫が今では芸能ニュースも語るようになり、その変化に1番驚いているのは妻の私だ。

 朝食にくる客は殆ど常連で、ガラス越しに見え隠れするが話したことはない。それで勝手にこちらで似ている人の名前をつける。ある人は某内閣時代の防衛大臣だったり、昔名をはせたフォーク歌手だったり、知り合いの女性だったりするが、今日は来ていないとか最近見かけないとか、その名前で言うのだ。新聞、週刊誌、料理本等もあり情報もこの時ばかりと読んで退屈することはない。
 たかが朝食、されど朝食。価格の安さ、自宅からの距離の近さで週2、3回は行かずにおられない。そして何より彼女の心からの笑顔に元気をもらい、明るく1日をスタートする朝食なのだ。
 
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 代官山の夜はふけて

 主人と私は息子の住んでいる埼玉県ふじみ野市から渋谷

に出て、代官山で下車。駅近くのビル三階にあるレストラン

で、娘と待ち合わせしている。寿司とイタリアンの店の奥に

バーがあり、そこを予約していた。このバーでは毎週土曜日

の夜、ジャズの生演奏があり、そこで歌う彼に会う事になっ

ている。演奏は八時二十分から。


  彼との出会いは三年前の冬、夫婦で長崎のハウステンボスに行った時だった。丁度光の祭典と野外での音楽祭が開かれ、小さな舞台が幾つもあった。クラッシックからジャズ、ラテン等いろいろあったが、ふと立ち寄った舞台の歌声に強く惹かれた。
 ジャズを歌う細身で長身の歌手の声はナットキングコールを思わせ、少し哀愁を帯びている。英語で意味はよくわからないが、どの曲も心に響いた。名前はグレンさん、サックス奏者でもあるアメリカ人。CDを買い、いっしょに写真を撮ると欲しいと言うので、拙い英文を添えメールで送った。すると「わたしのCDかいましたほんとにありがとう こんどあうをたのしみです ひらがなかたかなだいじょうぶ かんじよめないです」と返事がきた。芸能人とは縁のなかった私達にとって、ちょっとした事件だった。CDは世界中に知られている「明日に架ける橋」や「いとしのエリー」等日本の曲もカバーされていた。彼の作曲した曲も入っている。英語だから飽きがこないのか、車の中でほんとによく聴いた。

 その彼から昨年突然メールがきた。四月に名古屋でライブを開くこと、銀座と代官山のバーで週一回ずつ夜に出演していること。
 今年一月末、息子の家に行った時、急に思い立って彼に連絡すると、代官山でやっているという。世田谷に住んでいる娘も行くことになった。生演奏のあるバーに行くのは初めてで少し緊張したが、中は意外に気さくな感じだ。暫くして娘も来た。窓の外には小さな池が作られ、篝火が水面にゆれて美しい。
ピアノの伴奏で彼の歌が始まった。嬉しいことに私達の一番好きな曲だ。歌の後にサックスも吹いた。歌声の素晴らしさに音楽を学んだ娘も驚いている。休憩になって私達の席に来てくれたが、彼は英語で、私達は日本語、会話はチグハグ。
娘が、彼は私達の為に今日の曲目を変更したと言っていると教えてくれた。彼があまりに目を見て話すのでドキドキしたと言う娘。確かに歌の話をした時の嬉しそうな目は忘れられない。気持ちは充分伝わった感じだ。しかしその後、彼が、この店の仕事は今日が最後だと言っていることがわかり、私達は絶句した。何というタイミングだろう! 明後日には福岡に帰る。今日を逃していたら、彼に会うのはいつになるかわからなかった。三人で思わず「ラッキー」と叫んだ。再び歌が始まる。曲の合間の彼の話の中に「キムラファミリー」と言っているのが何度か聞こえた。演奏が終わると、代官山の夜はすっかりふけて、帰る時間が迫っていた。エレベーター迄見送りに来てくれた彼に、この次は銀座でと言って別れた。

 コマーシャルソングも手がけ、活躍の場はあるようだが、今の日本で生き残っていけるのだろうか。何とか終電車に間に合い、複雑な思いでふじみ野に帰り着いたのは次の日になっていた。朝、彼からローマ字で書いた日本語のお礼のメールがきた。
 Glenn.M.Ray 彼の歌声とサックスが、東京の何処かで聴ける日が続くことを願って、翌日帰路についた。

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 二人の手紙

  昨年暮れ、小学校低学年で同級生だった男の子から、私宛に一通の手紙がきた。彼とは同窓会では会ったが交流はなく、平成二十六年四月に発行された「悠遊」二十一号を十月に送っていたのでその事だろうと思った。

私は、小学三年まで九州の山奥の小さな村で育ったが、生涯忘れられない出来事があり、漠然といつか形に残せないかと思っていた。それは一年の時の担任の女の先生が優しくて美しく皆大好きで、二年の担任が男の先生に代わった時の事だ。
 僅か十七名の幼い子供達が一丸となって男の先生を拒否し、全員教室に立て籠り、二年生も元の女の先生に担任してもらう事に成功したのである。山奥という環境なのか、昭和二十八年という時代背景なのか、真相は定かではないが、子供達の思いが通じた何とも微笑ましい思い出だ。

平成二十五年に「企業OBペンクラブ」に入会することができ、この体験を「小さな手が小さな歴史を作った」という題で「悠遊」に載せる事ができた。また、入会して初めて800字文学館に投稿し、過疎となった故郷を書いた「村を守る愛しき人々」も出すことができた。「悠遊」二十一号とエッセイを、幸いにも健在でおられる先生と、連絡のつく同級生に送ったのが十月だった。数日後殆どの人から電話や手紙がきたが、彼からは連絡がなかった。

分厚い手紙の封を開けると、季節の挨拶が流れるような文で書かれ、幼い日の彼と結びつかず戸惑いながら読んでいるうちに、これは奥様が書かれているのだとわかってきた。本が届いた日彼が「立派な本を贈って戴いたのだから電話では失礼、自分で手紙を書く」と言って筆記用具を机に出したまま三ヶ月過ぎてしまい、私が「シビレ」を切らして書いている有様です、としるされていた。
自分も本を読んで感動したこと、故郷を離れた今も、山林を持っている彼と一緒に村をよく訪れているので、村人との交流もあり、エッセイにも共感したこと。酒を飲みながら思い出話をする時の彼は子供にかえった目をして、悪戯坊主だったことがわかるとか、気持ちや様子が細やかに表現されていた。四枚にもなった手紙の終わりの方に「おしゃべりするのは簡単だが文にするのは難しくやっとの思いで書きました」とあったが、美しい文字と文章は「ペンクラブ」への入会をお奨めしたいくらいである。最後に二人の連名が書かれ奥様の名前の下に(代筆)と書かれていた。傍にいた主人も「いい奥さんだなあ」と感心しきっていた。

そして最後の一枚が彼の直筆の手紙だった。四角い字でお礼の言葉と近況が書かれ、短いけれど誠実さが伝わってきた。同窓会の時、しみじみ「俺の人生は幸運だった」と言っていた彼。この奥様との出会いが最高の幸運だったのだと二人の手紙が何より証明している。幸運はただ降ってくる訳ではなく、呼び寄せる力もいる。腕白だったが優しい印象があった彼。気持ちはあるが、書けない彼に「シビレ」を切らして、四枚も書かれた奥様の手紙と、彼の一枚の手紙は、あの幼い日の記憶のように微笑ましく、夫婦の愛が感じられた手紙でもあった。

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 企業OBペンクラブ 副会長の 山小屋訪問記
企業OBペンクラブの副会長の大平さんが、九州に引っ越して来られたので、山小屋で懇談しました。訪問を大変楽しまれた様で、早速その様子を会に投稿されましたので、ご紹介します。
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木村家手作り山小屋訪問記  

 こんなにメチャ面白くステキな山小屋を見たことがありません。『悠遊』の木村さんの書かれた『手作り山小屋奮闘記』を読んでこの「山小屋」を一目見てみたいと皆さん思われたことでしょう。その「手作り山小屋」へ木村ご夫妻のお招きを受けて行って参りましたのでご報告いたします。
 
 博多駅から新幹線特急券100円で9分、終点の博多南駅で降ります。この不思議な駅を皆さんご存知でしょうか?木村さんご夫妻の出迎えを受けて車で約5分走ると、もう森の中それも深山幽谷かと見紛う深い森が10分ほど続きます。突然明るくなって視界が開けると遥かに霞んだ山々が浮かぶ絶景の風景画が現れました。小高い山の頂上を切り開いた場所に家が三軒立っていて、その一軒が木村さんの「山小屋」です。とはいってももはや立派な「家」でしたが。
 お二人は『悠遊』の表題を「成り行き山小屋手作り記」のような表現も考えたと言われるように、まさしく「成り行き」に次ぐ「成り行き」で思いもかけずに今の家が出来上がってしまったのですと説明して下さいました。菜園作りをするなら農機具入れる小屋を作ろう、それなら雨露しのげる人も泊まれる小屋にしよう、そしてどんどん付け足していくうちに今の立派な「山小屋」になってしまったのだそうです。
 
 まず、フィンランド製ログハウスを2軒継ぎ足したという発想に驚かされました。ところが、中に入るとお二人のアイデアの傑作が次ぎ次ぎに現れて驚きの連続です。まず普通の家では見たこともないたいへん大きな窓があって素晴らしい展望を居ながらにして見ることができます。この大きな窓はなんとガラスを入れた縦用のサッシを横にはめ込んだものでした。この思いつきはホームランです。次にリヴィングには掘炬燵が作ってあり、足許のホカホカはホットカーペットというのでそれだけで感心していると、横の床をめくってみて下さいとのこと。めくるとなんとまた堀炬燵が現れました。堀炬燵がダブルになっていたのです。お孫さんたちや大勢の皆さんが来られたときのために作られたとか。寝室も見せて頂きました。入ると平面の床のその先の床が2、30cm上がっています。通常はその上に布団を敷くのですが、お孫さんたちがやってくると、これがなんとステージに早変わり、ここでお孫さんたちが踊ったりするのを手前の床に座っておじいちゃんおばあちゃんはご覧になるのだそうです。ステージと観客席兼用の寝室なんて見たこともありません。なんとなんとの驚きの連続でした。その傑作のいずれもがなんだかほのぼのしていて、アイデアもきっとお二人のお人柄の産物なのではないでしょうか。
 これらの傑作も全部「成り行き」の産物でしかありませんとお二人は笑っておられます。もう一つ伺った「成り行き」の産物は、お風呂でした。最初お風呂は隣の家だけが見える場所だったが、近くで畑を作っている人が「ここでお風呂に入るなら、星空を見ながらでなくっちゃ」と言われ、そうか!ということで急遽建て増しして今のところに付け替えたとか。「星を見たい」というだけでお風呂を移動されていますが、その労力たるやたいへんなものだったと拝察されます。これにも大いに驚きました。実はまだまだあるのですが残念ながら書き切れません。
 かくして単なる農機具小屋から山小屋へと発想は大きく変化し、その山小屋も13年間の間にお二人の智慧とアイデアで何度も変貌を遂げられたのでした。お二人の「成り行き」は、常に現在に留まることなく前向きに進まれています。これは簡単なようで常人の到底及ぶところではありません。すっかり脱帽いたしました。その上ご馳走になり菜園で採れた野菜までたくさんお土産に頂いて帰途につきました。帰りの新幹線と電車の中でも傑作の数々が頭に思い浮かんできました。木村さんご夫妻どうも有難うございました。

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ふれあった異国の人達

 今年、私は古希を迎える。八月生まれだが戦後派ではない。ここまで何とか夫婦、子供達と生きて来られたことに感謝である。振り返ると想定外の多い人生だった。
その中でも外国の人達とふれあえたのは、嬉しい想定外だった。九州の山奥で育ち、内気で社交的でもなかったので、自ら求めた訳でもなく、どれも夫の仕事や趣味の関係での出会いであった。

最初のきっかけは、三十年ほど前、夫の海外転勤でマレーシアに住んだことから始まった。そのときインド人教師夫妻に英語を教えてもらい、家族同士で交流するようになった。家に招かれ、初めて食べたインドの家庭料理やお菓子は、日本で食べたことの無い味で、沢山の香辛料が使われていたので、その種類や料理方法等も教えてもらった。
家族は長老の父親を軸に、養子の男の子や障害のある人もいたが、いつも明るく全員で歓迎してくれた。何気ない会話で盛り上がり、こんなに顔立ちの違う異国の人達と笑い合うときが来るとは思ってもみなかった。
十年程前、息子夫婦とこの一家を訪ねたことがある。二十年程のブランクはあったが、当時と変わらぬ手作りのお菓子で歓迎してくれ、庭には愛用している日本車があり、再び温かい思い出ができた。

次の出会いは、夫が現役の頃、日本に留学している学生達と交流するボランティア活動に参加していたときのことである。その時知り合った中国人の女子大生が、定年退職したばかりの夫の勤務先に就職したことが偶然分かり、交流が始まった。
夫は定年後の夢だった畑作りを小高い山の上で始め、傍に小さな山小屋を建てたが、そこを彼女も気に入り、よく来るようになった。畑には彼女専用の畝も作り、野菜の収穫を共に喜び合った。中国から両親もみえ、山小屋で沢山の水餃子を作ってくれたことも思い出深い。
昨年、日本人男性と結ばれ、只今育児奮闘中である。一段落すると企業に戻り、中国と日本の架け橋となって再び活躍するだろう。流暢な日本語を話す彼女は感性も似ていて、いつも外国人であることを忘れてしまう。

次の二つの出会いも夫の在勤中で、仕事関係で知り合った人達だ。同じ日系企業に勤めるカナダ人で、日本に出張して来たとき、夫が休日に観光案内をしたことで交流が始まった。旅行中ビデオを撮り、編集して、お土産にしたことが嬉しかったらしく、その後も手紙を出し合った。彼は誰もが認めるジェントルマンで品格があった。
夫の退職記念にカナダ旅行をしたとき、勤務後に二時間ほど車を飛ばして、夫婦でホテル迄会いに来てくれた。 
山小屋の近くの畦道に咲く彼岸花の写真を二人に見せると、美しいと感動していた。六十五才が定年の彼は、その後湖の近くに別荘を持ち、ウッドデッキは彼の手作りで、木工の趣味と自然を愛する気持ちは夫と変わらなかった。

もう一つの忘れられない出会いは、企業研修でイギリス人学生を会社で受け入れたことがあり、担当した夫は交流を深めようと、彼を家に招待した。そのとき、彼は自ら祖母との面会を求め、畳の部屋できちんと正座して挨拶した。カボチャのスープを出すと、とても喜んでくれた。
研修を終え帰国した後、お礼の手紙も来て、彼の礼儀正しさと真摯な態度には胸を打たれた。その彼は、今、日本企業で働いていると風の便りで知った。心から応援したい。

幸い、平和な時代に生きることができ、何かの縁で出会った人達は、アジアの人も欧米の人も皆温かかった。想定外の異国の人達とのふれあいは、どれも心に残り、大切にしたいことばかりだ。

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イギリス青年の正座

 今から十七年程前、イギリスのカーディフ大学と北九州大学が、十五人位の大学生を三ケ月間交換留学させていた。互いの文化や経済を学ばせ、1ケ月間は企業に預け、仕事を勉強するという企画であった。夫の勤務先にも、イギリス人学生を一人企業研修で受け入れることになり、夫が世話をする事になった。
仕事そのものは各部門の専門に任せるが、日本企業の在り方や産業経済等マンツーマンで説明したとの事だった。夫は、日本を理解してもらうには普通の家庭も見せたいと思い、我が家に来てもらうことになった。私もマレーシアへの転勤でアジア人と接した事はあったが、イギリス人は初めてである。

多少緊張して迎えたその日、玄関で夫の横に立ったブルースと言う名前の青年は、穏やかな微笑みを浮かべ「コンニチワ」と挨拶した。金髪で小柄な好青年である。そして家族構成を聞いていたのか、祖母に挨拶したいと言う。和室の祖母の部屋に通すと、きちんと正座して、片言の日本語でにこやかに挨拶した。八十五才の祖母も膝を突き合わせ、思わず笑顔になり「まあまあ」と嬉しそうに言っていた。居間に移り、彼が手土産まで持ってきた事に驚きながら、テーブルで普段の昼食を出した。カボチャのスープが口に合ったのか、グーと言って親指を出し、台所に立つ私ににっこり微笑んだ。和やかな時間が過ぎ、日本人のガールフレンドと図書館で待ち合わせしていると言って帰って行った。控えめで礼儀正しい印象を残して。言葉は充分ではなかったが、日本に馴染もうとする真摯な姿勢や誠実さは伝わってきた。風の便りでは今、日本企業で働いているとの事、あの時のガールフレンドと温かい家庭を築いたのだろうか。

先日のスコットランド独立か否かの選挙のニュースや、NHKの朝ドラ「マッサン」等でイギリスの事情も少しは身近に感じるようになった。八十九才で他界した祖母の部屋に入ると、きちんと正座して挨拶しているイギリス青年の姿がふと甦る。

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手作り山小屋奮闘記
 
 標高四百三十メートルの小高い山の上に小さな山小屋が完成したのは、平成十五年の四月だった。夫が定年を迎えて一年後の事である。定年の二年程前から第二の人生は農業をしたいと思い、畑用の土地を捜し景色のよさで四十坪購入した。野菜作りは素人なので夫は農業学校に通い始めた。その時知り合った人が脱サラをし、後継者がいなくなった果樹園三千坪を買って畑にし、そこに山小屋を自分で作り住んでいた。それを見た夫は、休憩や道具入れとしての山小屋を作りたくなった。

定年になっていろんなモデルの山小屋を見て廻り、組立式のフィンランド製ログハウスで作る事にした。壁は丸太ではなく五センチ厚の平板で軽く安価で、窓やドア・屋根も付いている。基礎だけはプロに頼み、夫は会社の人に声をかけ、棟上げの日は数人、朝早くから手伝いに来てもらった。皆サラリーマンで素人である。先ずは壁になる板の切込み部を合わせて積み上げ、屋根迄の高さにする。最初は時間がかかったが、午後になると要領が良くなり作業が早くなった。声をかけ合い、汗を流しながら学習能力を発揮、外壁は一日で出来上がり、二日目には屋根も付いた。あの日の達成感を、手伝いに来た一人が「あんな楽しい日はなかった。その日の内に成果が出て」とサラリーマン生活では味わえない事だと言っていた。これで残った材料を中に入れて雨風を凌げる。

後は二人だけで、自宅から車で片道四十分の道を弁当持参で通い、野菜作りをしながら仕上げていった。苦労したのが、山の上は気温が低いので屋根と床に断熱材を入れる事になり、予定には無かった二重構造にした事だった。屋根と床の材料と断熱材を新しく買い、思考錯誤し、作るのに二倍の労力と時間がかかったが、お陰で夏涼しく冬は暖かい。又、他にも解らない事や難しい事が出てきて、途中ほんとに出来上がるのか不安が何度もよぎった。しかし壁を切りぬき窓をつけると、外の木々が美しく見え、力が湧き出て、新しいアイデアで大きなサッシの窓を付けたり、風呂を星の見える場所に変えたり、すったもんだしながらも、俄然楽しくなってきた。壁の塗装は私の仕事だった。
外側が出来ると中は掘り炬燵、食器棚、ベッド、そしてベランダ迄作った。又、近くの山道を車で通る人達が手作りしているのを見て興味が沸いたのか立ち寄った。仕事で断熱材を使っているのでと持ってきてくれた人、土台柱の切込み穴開けを見かねて手伝ってくれた大工さん、畑があまりにも痩せているのでと馬糞を持って来てくれた人、畑用の藁束と椎茸栽培の原木を持って来てくれた幼友達、手作りしている事を知って手伝いに来た友人達等いろんな人達とふれあいながら、十二坪の山小屋は何とか出来上がった。

完成後、手伝いに来た人達を呼び、宴をして壁に名前を書いてもらった。ほんとに手伝った人、宴だけに参加した人は別にして、皆大笑いした。それから暫くして、某テレビ局の「水と緑の物語」という番組で福岡の名水をエコカーで尋ねる番組があり、丁度山小屋近くで充電切れし電気を求めて立ち寄り、成り行きで一緒に近くにある湧水まで案内した。汲んできた水でコーヒーを出すと、それらが全部撮影されていた。もともと孫達に、有機肥料で作った無農薬野菜を安心して食べさせたい思いから始まった第二の人生である。番組の趣旨に合い、完成を待っていたようなタイミングと、私達が居あわせた偶然は奇跡的に思える。殆どカット無しで、ぶっつけ本番のままテレビ放映され、いろんな人から電話がかかってきた。

あれから十二年ほど経ったが、台風の直撃にもめげず健在だ。その後六十坪買い増しし、週に二度程畑の手入れの為通い、時々泊っている。建ててからも沢山の人達が来た。畑仕事の為に四苦八苦して建てた山小屋は、思いがけず多くの人達とのふれあいを呼び、想定外の楽しさを運んでくれた。


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 根っこは皆同じ(笑いの中で)
 
 ありふれた日常の中での他愛もない冗談に、私達夫婦は思わず笑いころげた。相手の夫婦も、白い歯を見せ笑っている。ふと私は、その相手が日本人ではない事に気づき、不思議なものを感じた。

 30年程前、主人の転勤でマレーシアに暫く住んでいた。 
週に1度、インド人教師夫妻に、家で英語を教えてもらっていた。子供2人も一緒に習い、レッスンの後はいつも談笑していたが、その時に感じた事だ。
 
 マレーシアに来て3年程過ぎると、夫妻とは家族同士の付き合いもでき、親しくなっていた。教師夫妻は6人家族だったが、私達が家に招待された時、いつも家族全員で歓迎してくれた。初めて知ったインド人の家庭料理や手作りのお菓子は今まで食べた事のない美味しさで、異国の食文化を知らされ、香辛料等も教えてもらった。
   息子夫婦の剛也夫妻(左端と右から2人目)と、マレーシアにいるインド人教師(左より3・4人目)宅を訪問 (2005年)
 教師夫妻は子供に恵まれず、養子をもらい、夫の父親は大切にされ、晩酌を楽しみ、障害のある妹2人は嫁がずに家事を引き受け、皆で寄り添い協力しあって明るく生きていた。それは昔どこにでもあった日本の大家族と変わらない。国や言葉、肌の色や宗教、食べ物や生活習慣は違っていても、家庭の中に入ると皆愛し合い協力し合って生きている。面白い事には同じ様に笑い、優しい言葉には嬉しく思うのは、どこの国でも同じではなかろうか。花や野菜、草や木も、いろんな種類はあるが、根っ子はさほど変わらない様に。

 初めて踏んだ外地マレーシアでの生活は驚きの連続だった。多民族国家で、マレー人、中国人、インド人は宗教も服装も食べ物も違う。国の中の十数個の州に一人ずつサルタンと呼ばれる国王がいて君臨していた。また、当時生鮮食品の魚や肉、野菜等は市場で売られていたが、生きた鶏が竹篭の中で鳴き、その横には丸裸の姿でぶら下がっている。魚売り場では、飛び交うかけ声の中、大きな丸太を輪切りにした上で、熱帯の魚が四角い中華包丁で解体され、地面の汚れを流すバケツの水はあたりに飛び散り、家に帰ると洋服の着替えとシャワーは欠かせなかった。
しかし、豊富で新鮮な海鮮の中華料理には、豪快なカニ料理など日本にない絶品の美味しさがあり、激辛のマレー料理やインド料理も慣れると美味しさも分かってくる。現地の人しか行かない屋台や小さな店も、この国ならでの味があった。衛生面で驚く事もあったが熱を通す事で理に適っていた。多民族の食物は、常夏の国に合った様にそれぞれ作られている。3年も過ぎると現地に馴染み、ふと気がつくと外国人である事を忘れ笑い合っていた。
 
 十年程前、息子夫婦とこのインド人教師一家を訪ねた。父親は他界していたが他は皆元気で、養子の男の子は立派な社会人になっていた。当時と同じ様に手作りのお菓子で歓迎してくれ、現役を退き家庭菜園を楽しみながら「今も日本車を愛用しているよ」と夫妻は微笑んだ。狭い世界しか知らなかった私にとって、あの不思議な体験は貴重であったとつくづく思うのである。

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 故障車と小枝(シンガポールの思い出)
 
私達夫婦は成人した子供達に誘われ、2005年と2013年の2度シンガポールへ行った。ツアーでなく手作り思い出旅行である。我家族は30年程前転勤で、シンガポールに隣接したマレーシアのジョホールバルに暫く住んでいた。子供達は学校がシンガポールだったので、この地を故郷の様に感じ、社会人になって訪れたくなったらしい。2005年の時以上に2013年の旅はその発展ぶりに驚かされた。舟形のプールを乗せたマリーナベイホテルを始め高層ビルが乱立し、広い埋立地に作られた公園には数々のレジャー用の乗物、斬新なデザインの博物館や植物園が見事で、シンガポールの象徴のマーライオンも霞む程だった。交通機関も地下鉄が縦横無尽に走り、カードさえ買えば何処へでも行ける。市街地に入ると地上は車中心で人は地下街を歩く様になっていた。淡路島程の国土は考え尽くされた設計で出来ていたが、以前と変わらないのは街中にある美しい並木だった。

私はこの並木に忘れられない思い出がある。マレーシアには民族衣装に使われるバティックという伝統的な染物があるが、当時友人と二人でシンガポール迄習いに行っていた。布に絵を描き、蝋でなぞった後に色を付けて染め上げる。楽しくなった頃、友人が帰国となった。一人で車を運転し国境を越えて行く事に不安はあったが、諦めきれず通っていた時の事だ。市内で突然車が動かなくなった。何とか車を道の端に寄せ、外に立って途方にくれていると、通りがかりの男性が車を停めてくれた。事情を聞くと即座に傍の並木をポキッと折ってトランクに挟んだ。シンガポールでは車が故障した時こうして知らせるのだと言う。確かに常夏の国の並木は年中鮮やかな緑で遠くからもよく見え、木も至る所にある。それから修理工場迄連れて行ってくれ、車は修理でき、その日の内にマレーシア迄帰る事が出来た。シンガポールから帰れなくなったかもしれない事を思うと、見知らぬ人の親切はほんとに有難かった。バティックはその後帰国迄の1年程習い続け、イミグレーションでは日本人が画いている事で目を引いたのか検査官から「記念に欲しい」と冗談交じりに言われた。また、マレーシアで主人と同じ職場で働いていた現地の人が、昨年家族連れで日本旅行に来て我が家にも立ち寄った時、バティックの絵を見乍ら話も弾んだ。

今度の旅行では電車内で席を譲ってくれたり、乗り換えで戸惑っている私達を察して乗り方を教えてくれ、人々は今も親切であった。子供達は通っていた日本人学校を訪れ、今働いている先生とも話ができ、懐かしさで一杯だった。唯、高層マンションの窓から突き出した物干し竿の数知れぬ洗濯物は見られなくなり、鬱蒼とした並木や道路沿いの観葉植物の傍には虫一匹いない。地下鉄には駅員はおらず、時間が来れば扉は閉まり、運転手のいない電車は自動的に走り出す。水陸両用のバスに乗り、その発展に圧倒されながらも、生活の臭いが感じられなくなっていた。
車が故障したら今も小枝を挟む習慣は続いているのだろうか。あの日の親切に感謝しつつ、この習慣は続いて欲しいと思った旅でもあった。

子供が日本人学校 小2と中1 の頃 
 
 28年後の家族旅行 

                               本ページのトップに戻る

 国境を越えて通学した日々
 
今から31年前、42才の夫はマレーシア勤務を命じられ、家族より半年早く出発した。3人の子供の内、長女は現地に高校が無いので、やむなく祖母に預け、私は小5の長男と小2の次女を連れ、38歳で初めて外国の土を踏んだ。赴任先のジョホールバルはマレーシアの最南端で、シンガポールと隣接し、両国はジョホール水道が通っている橋で繋がり、そこが国境となっている。

先ずはシンガポールチャンギ空港に着いたが、外に出た瞬間大きな温室に入った様なムウッとした熱気に包まれ、これが赤道直下なのかと感じた。それから1時間程で国境を越え現地に着いた。ここでの生活で大変だったのは、日本人学校が無く、シンガポール迄国境を越えて行かなければならない事だった。ジョホールに住んでいる日本人は協力し合ってスクールバスを雇い、子供達は毎日パスポートを持って通学した。
当時のシンガポールに住んでいる日本人は約2万人、日系企業は840社、日本人学校の生徒数は小中合計で2千人を越し、世界の日本人学校の中で最大だった。ジョホールから通う生徒は30名程度だったが、パスポートを持っての通学は世界でも珍しかった。子供達は命の次に大切なのはパスポートだと言い聞かされ、親達も学校から帰ると何より先にそれを確認した。

ある日学校から帰った息子が「無い」と言うので青くなった。必死で捜しても見つからず焦り始めた時、違う地区の親から息子のパスポートを預かっていると電話があった。スクールバスの中で中国人の運転手が見つけ、日本人の親に渡せば連絡してくれると思ったらしい。ほんとに助かり、家族中で胸をなで下ろした。
また、音楽好きの次女は4年生になってブラスバンド部に入ったものの、練習で遅くなるとスクールバスに乗れない。その時はシンガポールでは市営バスに乗り、マレーシアに入ってから公衆電話で連絡し、私が車で迎えに行く事にしていた。待っていたその日、なかなか電話がかかって来ない。日も暮れ始め気が気でなくなった時、しょんぼり1人で帰ってきた。話を聞くと、近くまでマレー人の青年がバイクに乗せてくれたと言う。イミグレーションから家まで海岸添いの1本道で、車で15分、子供だと徒歩で1時間以上はかかる。持っている筈のお金が無い事に気づき歩いて帰ろうとしたが、その遠さに愕然とし、日も落ちて、涙が出てきたという。その時、通りがかった青年が娘の様子に気づき声をかけ、バイクに乗せてくれたとの事だった。携帯電話等無かった時代、娘の心細さを思うと、幾重にも迎えの方法を考えておくべきだった。バイクに乗せてくれた青年がいい人であった事がどれ程幸運であったか、後になればなる程身につまされる。

 当時マレーシアではマハティール首相のルックイースト政策もあって日本人に対して好意的で、街で会う見知らぬ人も視線が合うとよく微笑んでくれた。バイクに乗せてもらった時、疑う事もなく「歩いて帰らなくてよくなり唯々嬉しかった」という娘、親の私もほんとに呑気だった。その後それぞれの国の発展は目覚ましく生活は豊かになったが、どこか生き辛くなった今、複雑な気もする。マレー人、中国人、インド人が上手に暮らしている国で受けた親切のお蔭で、何とか無事に3年半程の海外生活を終える事ができた。温かい思い出を作ってくれた名も知らぬ現地の人達に心から感謝したい。


下は、情報誌「世界画報」が当時たまたま取材に来て、国境を越えて通学と掲載された息子(右端)と次女(左端)(1985年)

                          
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 小さな手が小さな歴史を作った

以前NHKで「その時歴史は動いた」という番組があったが、歴史上の人物や事件でなくても、人の一生には各々歴史的な出来事が誰にでもあると思う。私の中にある、忘れ難く何とも微笑ましい出来事を紹介したい。
 それは私が小学校一年生から二年生に進級する時のことで、今から六十年以上も前の出来事である。

私が通っていた小学校は大変な山奥にあり、全校生徒百三十名程度で、終戦の年生まれの私のクラスは十七名、一クラスである。一年生の時の担任の先生は女性で、とても優しく若く美しく、淡いピンクの口紅が色白の肌をより引き立たせ、山奥で戦後の貧しい生活の中で育っていた私達は、その姿を見るだけでも嬉しかった。
課外授業等なかった時代だが、ある春の晴れた日に、先生は突然算数の授業だと言って皆をれんげ畑に連れて行かれた。れんげの花で数の勉強を教えられる予定の様だったが、皆勉強の事などすっかり忘れて、花束や首飾りを作り、先生を囲んで駆け回った。ピンクの絨毯の様にびっしり咲いたれんげの花、済みきった青空、暖かい春の陽ざし。カラー写真等なかったけれど、皆の記憶の中に美しく鮮明に残っている。予想もしなかった楽しい一日は生涯忘れられない日となり、いつも同窓会での話題は、れんげ畑で始まりれんげ畑で終わる。ただし、後で先生は校長先生から大目玉をくらい、畑の持ち主からは、れんげは肥料だから大切にする様注意を受けられたそうだ。

又、入学後どうしても学校に馴染めない女の子がいて、五年生の姉の手を一時も離さない。無理に離そうとすると泣き叫ぶ。結局、暫くその子の隣で姉も一年生の授業を受けていた。小さな一年生の隣に大きな姉が並んで座っている姿は、今思い出しても微笑ましい。
 こうした事もあり、わがクラス全員が熱烈な先生の大ファンだった。しかし、二年生に進級する少し前に、担任が男の先生に替わることがわかり、クラスは蜂の巣を突いた様な騒ぎとなった。だが皆、どうしていいか分からない。せめてもう一年担任して欲しいと切実に願いながら、ついに新しい男の先生を迎える日が来た。
 小さな歴史が動いたのは、正にその時である。

 先生が教室の入口の戸を開けて入ろうとされるその時、クラス全員が一斉に入口に集まり、小さな手で戸が開かない様にしたのだ! 誰が誘った訳でもなく、どんな事があっても先生を教室に入れてはいけないと、気がついたら皆で必死に戸口を押さえていた。十七名の小さな手の思いは完全に一つになり、戸は開くことはなかった。ガラス越しに、男の先生の驚き困惑しきった様な顔が見えた。
 どれ位の時間がたったのだろうか、暫くして先生は引き返された。この無鉄砲な幼い子供たちの行動は、良し悪しは別として、ほんとに一途で心は一つになっていた。この一途な気持ちが伝わったのか、二年生も元の女の先生に受け持ってもらう事になった。昭和二十八年の春、小さな村の小さな子供達が作った小さな歴史である。

「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」の歌の通り、山や川は今も少しも変わっていない。しかし、小学校は平成九年に廃校となり、同窓会が行われていた講堂も、平成二十五年には取り壊される事が決まった。村人も随分少なくなり過疎となっている。唯、この地から出られた歴史小説家安部龍太郎氏が直木賞を受賞された事もあり、この地の歴史的な事実が色々明らかになってきた。
 この地は南北朝時代の後醍醐天皇の孫の良成親王を最後まで守った武将達の居た地で、六百年間変わらずその子孫が残っているのは、全国的にも珍しいとの事である。廃校になった小学校のすぐ側に、良成親王を守った側近中の側近、橋本右京定原という武将の墓が、今も村人により大切に守られている。
 わずか十七名の子供達が動かした小さな歴史を、この武将は微笑みながら応援していてくれたのかもしれない。

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 村を守る愛しき人々

 私は昭和二十年釜山に生まれ、戦後の苦しい時代を九才まで福岡県の山奥の小さな村で過ごした。黒木瞳さんや五木寛之氏が出た黒木から幾山も越えて行く。ここが故郷である。

 ある日故郷が山奥という友人と、どちらがより山奥なのか見に行くことになった。福岡市から車で四時間、我故郷に到着。美しい山や川は昔と変わらないが、昨年の豪雨で川の補修が行われていた。我家は無いが、川を挟んだ山側の三軒の家は昔のままの様に見える。水田も少しあり、男性が一人働いていた。
 家に近づくと畑で働いている婦人が二人。思いきって声をかけてみた。ずっと昔すぐ下に住んでいた者だが懐かしくなり訪ねた事、昭和二十八年の北九州大水害の時、ここの三軒の家の方が避難の手助けをしてくれ、家にも泊めて戴いた事等を話した。
 すると年配の婦人が私を知っていると言われる。泊めて戴いた家には私と年の違う子が二人いてよく一緒に遊んだが、その子達のお母さんだった。私は三姉妹の末っ子だが、話をしていると名前を思い出され、上から「みち子さん、妙子さん、敏美さん」と言われた時は言葉が出ない程驚き感動した。およそ六十年程会っていない! 御年九十三才! 予告なしの突然の訪問なのに。

 思えば母が急病になった時もお世話になっている。振り返れば色んな人に助けられて生きて来た。遅くなったが、有難うございましたと言えて良かった。今も元気に息子さんご夫婦と畑仕事をしておられる姿は眩く見えた。隣の二軒は以前に村を離れられたが、一軒の方は直木賞作家安部龍太郎氏の生家である。同氏が受賞後の講演で「山奥で育った事が私の原点である」と言われた。今同じ場所で同じ思いで私もここに立っている。

 水田で働いている息子さんに昔のお礼を言うと、手入れの手を休め「泊まっていきなさいよう」と手を振って何度も言って下さった。その声が深い緑の谷間にこだまし、今も耳に残る。暖かい余韻を感じながら郷里を後にした。

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  文章を書きたくなった
 
企業OBペンクラブ」への加入 と古い日記

 私にとって心の転機が来たのは5年前の63才の時、家の整理をしていて古い日記が見つかってからである。中学1年から高校、就職して2年間まで書いていた。

 私は終戦の年に生まれ小学3年迄大変な山奥で育ち、4年生で福岡市の中心地に転校しカルチャーショックを受け、5年生の時父親が交通事故死。この二重のショックに11才の私は立ち直れないまま時が過ぎた。友達もできず、苦労している母には何も言えず、その寂しさが日記を書かせたのだろう。

 読んでいると数々の発見があった。手を差し伸べてくれた人もいたのに、その時は気づかなかった。
今こうして居られるのは多くの人達に支えられてきた事を日記は教えてくれ、辛い時の思い出も少しずつ温かくなっていく。

 今は亡き人、会えない人も沢山いる。感謝の気持ちを何かで表したいと思うと文章を書きたくなった。主人に話すと「企業OBペンクラブ」をネットで探し申し込んでくれた。私は福岡在住だが息子や娘が関東にいるので東京に出る事もある。その機会に800字文学館にも出席させて戴いた。当クラブとの出会いは私にとって夢の様である。

今後共宜しくお願い致します。  木村 敏美
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